2021年11月28日 待降節第一主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書21章25~36節
今年も色々ありましたが、いよいよ待降節になりました。私たちはこれから4週間、クリスマスを待ち望んでいきます。しかし、正直、どのような祝い方をすれば良いのかと悩む気持ちもあります。まだまだコロナが終息してはいないからです。コロナで傷ついた方々が多くおられるからです。当たり前の生活さえもできない方々が多くおられる。
ご存知のように、ヨーロッパでは再び新型コロナの感染拡大が起きています。ドイツでも過去最多を記録する勢いです。そのような情勢下の中、急遽ミュンヘンのクリスマス市が中止になったというニュースを見ました。今年こそは、と期待していた方々の落胆ぶりに心が痛みました。悔し涙を流される女性もいました。
あるいは、アフガニスタンの現状を取材した報道番組も見ました。このままでは、この冬に百万人もの餓死者が発生するのではないか、と言われるほど悲惨な状況です。とにかく、現金がありません。市場に食品が並んでいるのに買えない。売れないからその人たちにも現金が入らない。少しでも現金を稼ごうとして、これから冬を迎えるのに暖房器具や布団などの家財道具を売りに出す人々が軒を連ねています。栄養失調の子どもたちで病院は溢れ、医薬品等も不足している。運ばれてくる子どもたちの4人に一人はその日の内に亡くなるそうです。
もちろん、それ以外にも私の知らない悲しい、辛い現実が多くあるでしょう。そんな中で、果たしてクリスマスなど祝っている場合なのか、との思いが浮かばない訳ではない。
クリスマスとは、確かにお祭り騒ぎになるほどに「めでたい」ことなのです。そのことを否定するどころか、もっともっとその「めでたさ」を強調しても良いと思うくらいです。しかし、なぜそれほどに「めでたい」ことなのかを、私たちは決して忘れてはいけません。神の子、私たちの救い主であるイエス・キリストがお生まれになったのです。どこに。私たちの只中に、です。この世界の只中に、です。おそらく貧しかったであろうごく普通の夫婦の元に、です。
普通ならそんな場所で出産などしないだろうと思われる家畜小屋の中に、です。生まれたばかりの赤ん坊を寝かせるには全く相応しくない飼い葉桶の中に、です。それが、神の子であり、私たちの救い主であるお方がお生まれになった、まことに「めでたい」場所なのです。つまり、私たちの神さまは、そんな場所さえも決してお忘れではなかった、ということです。むしろ、そんな場所にこそ、ご自分の愛する子をお送りになりたかった、ということです。なぜか。そここそが、そこに生きる人々こそが、愛すべき場所、愛すべき人々だったからです。救いたいと望んでおられた場所、人々だったからです。
先ほどのアフガニスタンばかりではありません。私たちは、これは現代社会の恩恵の一つだとも多いますが、遠く離れた地に生きる栄養失調で肋骨が浮いてしまっている多くの子どもたちを見る機会がある。その子どもたちを胸に抱きながら途方に暮れている親たちの表情を見る機会がある。私は思う。イエスさまもひょっとしたら、そうだったのかもしれない。貧しかった母マリアも十分に母乳が出ず、イエスさまも空腹を覚えられて、米のとき汁みたいなもので育ってこられたのではないか。痩せ細っているイエスさまを案じながら、母マリアも無事に成長できるようにと祈ってきたのではないか。そんなことも想像する。
クリスマスの時によく読まれる旧約聖書の言葉があります。イザヤ書8章23節以下ですが、「先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。イエスさまの誕生をよく現す言葉だからでしょう。しかし、ここでもう一度確認したいのは、光…、つまりイエスさまを見たのは、「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」なのだ、と言われていることです。
先ほども言いましたように、ここまで、この私たちの、世界の現実にまで降ってきてくださった方だからこそ、しかも、この方が神の子であられるからこそ、このような人たちの、つまり、私たちの、底辺の底辺に住む人たちの「光」となることができたのだと思うのです。だからこそ、「めでたい」のです。どんな現実の中にあっても、むしろ辛い現実になればなるほど、私たちはこの「めでたさ」を忘れないで祝いたいと思うのです。
そんな待降節に与えられました福音書の日課は、終末に関わる箇所からでした。なんだか、これからクリスマスを迎えようとする私たちに水を刺すような箇所ではないか、と思われたかもしれません。しかし、もしそのような印象を持たれるならば、先ほどから言っていますように、本来クリスマスのメッセージとは、どこに「光」を与えるものなのか、ということを誤解してしまっているからなのかもしれないのです。
ここ2~3週間ほどは、「終末」ということを考えてきたと思います。この「終末」、あるいは「終末の期待・希望」ということを抜きにしては、聖書…、少なくとも私たちの言うところの新約聖書はなかなか理解できないのかもしれません。なぜならば、最初期のキリスト者たちは、すぐにでも終末がやってくると期待していたからです。皆さんもよくご存知のパウロもそうです。パウロの初期書簡として考えられているのが第一テサロニケですが、この書は非常に終末論的だと指摘されています。あるいは、使徒言行録に出てきます初期教会の財産共有制共同体も、終末が近いという意識だったからこそ出来たことでしょう。しかし、彼らが期待したようには終末は起こらなかった。
ですから、次第に「忍耐」の必要性が説かれることになっていきました。今日は、そのことを詳しくお話しするつもりはありませんが、ともかく、ではなぜ彼らはそれほどに「終末」を期待していたのでしょうか。もちろん、救われたいからです。これまでもお話ししてきましたように、「終末」とは救いの完成の時でもあるからです。しかし、もう少し踏み込んで考えていきますと、それは、この現実の中では救いをなかなか実感し得なかったからではないでしょうか。今日の私たちは、救いといえば「魂の救い」「心の平安」といった内面の問題に特化しすぎてしまっているようにも感じます。しかし、聖書が語る本来の救いとは、神さまの国の到来なのです。
神さまがご支配される世界で、身も心も救われて神さまと共に生きる世界です。そんな世界に憧れる。ですから、待つ。その時を待つ。現実は何一つ変わらないように思えても、イエスさまの約束を、その言葉を信じて待つ。耐えて待つ。それが、少なくとも聖書の時代に生きた人々の姿だったようにも思うのです。
はじめの方で、アフガニスタンを取材した番組の話をしましたが、その番組である家族が取り上げられていました。夫婦とその母と幼い娘の4人暮らしです。日本円で数百円の家賃さえ払えなくなり、無料で貸し出されている洞窟の中で現在は暮らしておられます。
お金もなく、食料もなく、冬の寒さをしのぐ燃料もなく、途方に暮れておられた。そのご主人がこう言われました。神さまがきっと良い仕事を下さると信じています、と。もちろん、同じ信仰ではありません。強がっているだけと受け止められなくもない。しかし私は、途方に暮れていても絶望はしていない信仰からくる希望の力を教えられたような気がしたのです。
もちろん、支援すべきです。色々と政治的な思惑があろうとも、人道的な視点に立って急いで支援すべきです。国だけでない、私たちも民間のルートを通して支援すべきだと思う。と同時に、私はあの素朴な信仰を見習いたいとも思うのです。
「再臨」。私たちにとっては、どことなく縁遠く思える信仰理解です。しかし、この信仰に希望を見出してきた先達たちが確かにいるのです。厳しくて、厳しくて、現実世界に救いを見出せなくなってしまっても、「やがて」という希望を抱きながら生きることを諦めなかった信仰が…。
待降節とは、イエス・キリストのご降誕を待ち望む時ではありますが、と同時に、イエス・キリストの再臨をも待ち望む時でもあるのです。この私たちの只中に、まさに降ってこられたイエスさまも、これから救いの完成のために来てくださるイエスさまも、同じイエスさまです。私たちを案じ、愛し、何としてでも救い出したいと願っておられる方です。だから、待つのです。待てるのです。心待ちにすることができる。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。「マラナ・タ(主よ、来てください」。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の(救いの)時が近いからだ」。アーメン