聖書箇所:ヨハネによる福音書14章23~29
今年もペンテコステ・聖霊降臨祭が近づいて参りました。今日の日課には、そんな聖霊の働きについても記されていました。
聖霊…。私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体なる神を信じています。これが、私たちキリスト教信仰の基本中の基本ということになります。しかし、先ほどの父なる神は創造主、子なる神は私たちの救い主イエス・キリストと良く理解されているのに対しまして、この聖霊なる神については、よくわからない、といった声も度々耳に致します。
徳善先生が訳されました『エンキリディオン 小教理問答』には、このように記されています。ご存知のように、「使徒信条」は三位一体なる神を告白している訳ですが̶̶使 徒信条に限らず、聖餐式礼拝の時に唱える「ニケヤ信条」も同様ですが̶̶聖霊の箇所に ついては、「第三条 聖化について」とあり、次のように記していきます。「答え 私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。同じように聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、聖め、イエス・キリストのみ許にあって正しい、ひとつの信仰の内に保ってくださる。
このキリスト教会において聖霊は日毎に私とすべての信仰者のすべての罪を豊かに赦し、終わりの日には私とすべての死者とを呼び起こし、すべての信仰者と共に私にキリストにある永遠のいのちを与えてくださるのだ。これは確かに真実なのだよ」。聞くだけでは、なかなか理解しづらいと思いますが、要するに、私たち個々人においても、また教会、もっと広くキリスト教世界と言っても良いのかもしれませんが、ともかく聖霊によらなければ何もはじまらない、ということです。
聖霊の働きがなければ、神さまを、イエスさまを求めることもできないし、救いの出来事(ルター風に言えば、罪の赦しということでしょうが)にも関心を抱けないし、信仰の歩みなどあり得ない、ということです。今日、今、この礼拝堂に集まって、あるいはライブ配信等によっても、礼拝することなどあり得ない。つまり、逆に言えば、私たちが一つ一つその働きを意識しようとしなかろうと、信仰の事柄がそこにあるということは、聖霊の働きがあるからです。
先々週もお話ししましたように、例えそれが信仰の悩みであったとしても、自分の不信仰さに嫌気が差すような思いであったとしても、神さまに悔いる・謝罪するしかないような日常であったとしても、つまり、とても信仰者らしい振る舞いではないように思えるようなことであったとしても、聖霊の働きがなければ何も起こらない。何一つ始まらないのです。それらがあるということは、与えられているということは、そこに必ず聖霊の働きがあるからです。少なくとも、ルターはそのように理解していたのではないか、そう思う。
私たちは、どうしても自分基準で物事を見てしまいやすい。信仰の事柄も、聖霊の働きについても、きっとこうではないか、と自分で測ってしまいやすい。しかし、そうではありません。なぜなら、あなたを救いたがっているのは、あなた自身ではないからです。そうではなくて、神さまがそのように欲しておられるからです。私たちは、自分自身の救いさえも求めることができないのです。それが、不信仰というものです。なのになぜ、私たちは救いを求めているのか。少しでも神さまを信じたいと欲しているのか。信仰の弱さを嘆いているのか。聖霊なる神さまが、いいえ、父・子・聖霊なる三位一体なる神さまが、この私たちを欲しておられるからです。救いたい、と。癒したい、と。愛の中に包み込みたい、と。平安を与えたい、と。真の自由、命へと導きたい、と。私たちではない。神さまが、そう欲しておられる。だからこその、聖霊の働きなのです。
先々週だったでしょうか。私たちがイエスさまの羊であるといった話をした時、その羊の特徴はイエスさまの声を聞き分けることだ、と言いました。それが、ヨハネが記すイエスさまの羊の第一の特徴です。今日の箇所にも同様のことが記されていました。23節
「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。……わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない』」。イエスさまの羊であるならば、飼い主であるイエスさまを、たとえ拙い不十分な愛だとしても、愛するはずです。自分なりの小さな愛で愛そうとするはず。それは、御言葉を守ることだ、とおっしゃる。御言葉に従うことだ、とおっしゃる。では、そんな御言葉を守る、御言葉に従うということはどういうことなのだろうか。
私は、そのことを考える上で、あのペトロの召命物語が良い例ではないか、と思っています。ルカによる福音書です。もうよくお分かりだと思いますので、くどくどと説明しませんが、ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。夜通し働いたのに何も収穫がなかったところにイエスさまが現れ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。その時のペトロの答えがこうです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。
皆さんもよくご存知の言葉だと思います。ここでペトロはこう答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と。これが、おそらく私たちの自然な反応でしょう。ペトロはもう何年もここで漁師として生活していた。そんな彼の知恵、知識、経験則が、また感覚、感情、思いが、「夜通し働いたのにとれなかったから無理だ」と結論づけたわけです。もし、ここで終わってしまったら、それはイエスさまの羊ではなくなってしまいます。なぜなら、御言葉を大切にしないどころか、無視することになるからです。
しかし、ペトロはこう続けることができた。「しかし、お言葉ですから」と。聖書には何も記されていませんが、先ほどからの聖霊の働きを考えるならば、ペトロの知らない内に、自覚のないままに、聖霊の働きがあったのかもしれない。だから、「お言葉ですから」と言えたのかもしれません。もちろん、信じていた、信じきっていた、とは言い難かったでしょう。むしろ、どうせダメに決まっている、と心の中では思っていたのかもしれない。しかし、「お言葉ですから」と進むことができたからこそ、奇跡を、イエスさまの言葉の真実を体験できたのです。そして、これが御言葉を守る、御言葉に従う、という時に大切なことだと思うのです。私たちは、相変わらず不十分な者です。ルター風に言えば、
「義人であると同時に罪人」にすぎない。つまり、信仰の恵みを頂きながらも、十分にその恩恵を発揮することができていない途上の人間に過ぎない訳です。しかし、それでも、そんな自分達の思いを超えて、「お言葉ですから」と従っていく。信じていく。それが、イエスさまを愛することにもつながっていく。そうではないでしょうか。
確かに、私たちはイエスさまの羊です。イエスさまを愛しています。だから、御言葉を信じて、従っていきたい、と思う。不完全であることを自覚しながらも、そう願わされている。しかし、では、私たちの実際の生活、現実はどうなんだろうか。「お言葉ですから」と従っていけているだろうか。むしろ、御言葉を忘れたような生き方になってはいないだろうか。そんな問いも浮かんでくるのではないでしょうか。
そこで、私たちは、このイエスさまの言葉をも信じ・信頼していく必要があるのだと思うのです。「わたしは、あなたがたといたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。たとえ、私たちが忘れてしまったようになったとしても、見失ってしまったようになったとしても、神さまが遣わしてくださる聖霊によって、もう一度全てのことを教えてくださり、また思い起こさせてくださる、というのです。それが、聖霊の働き、役割である、と。しかも、雨宮神父はここの「思い起こせる」というところを、「過去の単なる想起では終わらず、イエスの言動を納得させ、さらには生きる方向をも転換させることを表す言葉」だと言っておられます。
もう一度言います。聖霊の働きがなければ、何もはじまりません。個々人においても、教会においても信仰的なことは、何一つ生まれないのです。その道中さえもままならない。そして、完成もあり得ない。つまり、全てにおいて…、キリスト者である私たちの生と死、ありふれた日常生活、全ての領域において聖霊の働きがある、ということです。私たちは、この聖霊に囲まれて生きている。私たちを救い、生かすために。何よりも御言葉によって命を得させるために。
私たちが、そう願うからではない。神さまがそう願っておられるから。だから、聖霊が与えられている。確かに、そう…。しかし、この言葉も真実でしょう。ルカは祈りについて教えている中でこのようにも語っているからです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。聖霊降臨祭を前に、なおも「聖霊をお遣わしください」と祈る私たちでもありたい。そう思います。