聖書 ルカ:10:38~42
【物語の背景】8:1~3にイエスが、ガリラヤの村々を宣教して回っていることが記されている。ルカは、読者にイエスの活動、働きに、それはまだ小さく、もろいものではあっても、その動きに協力し、支えている人たちがいたことに注意を向ける。このことは大変重要であった。宣教は、イエスと弟子たちが行い、それを周りにいて支援する人たちがいた。その中心は、女性たちであったのである。そのような流れにおいて、今日の出来事が起こっているのである。そのことをまず踏まえねばならない。
同時に、イエス一行の旅は、新たな段階に入ったのである。それは、【イエスは天に上げられる時期が近ずくと、エルサレムに向かう決意を固められた。】(9:51) この時点で何が起こっているかを認識しなければならない。つまりギヤ―チェンジがされているのである。ここでは、地理的問題よりも、ルカの神学的観点が重要視されている。以前のムードと異なった雰囲気が醸し出されていると言っても過言ではない。少なくとも以前とは違う緊張感が漂っている。そのような背景が前提になっていることを前置きしておかなくてはならない。
【一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。】(10:38)
この物語では、明らかに【歓迎】することの二様の姿が、二人の女性の接待を通して表されている。別の表現を使えば、【おもてなし】である。イエスは、どちらも受け入れる。しかしこの場合は、優先順位をつけている。み言葉を聞くことの優位性、優先性が示されている。それはなぜか? 今やイエスは、エルサレムに向かう決意をされたからである。即ち、十字架への道を歩んで行かれたのである。
【彼女にはマリアと言う妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞き入っていた。】(V39) まるでラビとその弟子のように、マリアは、イエスの話を夢中になって聞き入っている様子が浮かんでくる。勿論この風景は、当時としては画期的である。何故なら、女性が生徒となって、師の話を聞くなどあり得なかったからである。しかしこの描写には明らかに、当時のラビと生徒の学ぶ姿が描かれている。
【足元に座って】、マリアがイエスの話に耳を傾けていたことが、それを証明している。更にマリアのこの姿は、キリスト教が、神の国、福音を宣べ伝える証し、説教へと展開して行くことへの言及がされている。マリアは、その先駆けとなった。即ち、その後の教会の働き、神の国、福音の宣教が、イエスの言葉を聞くことから始まるという、先駆者となったのである。
【マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるように仰ってください。」】(V40) マルタの返答は、当然である。当時女性は、お客さんを歓待するため、食事の用意をするのが当たり前であった。それが大変重要なおもてなしであった。誰が、男たちに混ざって、イエスの話に耳を傾けるであろうか?男勝りと罵りさえされるであろう。あるいは誰がそんな女を嫁に貰うであろ
うか? 嫁の貰い手が無くなる。それは当時の女性にとって、致命的な風評となった。マルタは、当たり前の気遣いをした。
【主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(気を遣い、思い煩って)しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」】(V41) イエスの答えは、【マルタ、あなたの主張は十分わかる。あなたのしていることは全く正しい、あなたは、私たちが、この家に来てから、十分過ぎるほどのもてなしをしてくれた。ありがとう!感謝している。しかし必要なことは一つなんだ。マリアは、それを選んだのだよ。】と諭すよう
に語られた。
【良いほう】とは、英語では、‘ Good portion ’となっている。つまり良い分け前を選んだとの意味である。
マリアの選びは、伝統的なしきたりからは、大分離れている、しかも女性が、学ぶことは、許されない時代であれば、革新的な行為である。イエスは、決してマルタのもてなしを否定はされない。否むしろ大いに歓迎したに違いない。しかしヤコブが語っているように、聞くことを重んじる人は、行動が伴わず、単なる口先だけの人になりやすい。信仰は、行動が伴ってはじめて、完成される。人々は良く見ている、私たちは、観察されている。
前の記事が、【善いサマリア人】のたとえ話である。イエスに、律法の専門家が、【何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができるか?】との問いに、イエスは、正解を答えたのに対して、次のように返答した。【正しい答えだ。それを実行しなさい。】と。実行しなければ、何の意味もない。しかしマルタのように、おもてなしをするのに、不平が出てくるのは、興ざめである。もてなしとは、気づかれずにするのが本来のもてなしである。それこそがもてなし上手である。
今日の聖書は、イエスの置かれた状況の変化に目を止める必要がある。つまり、イエスは、エルサレムに向かう決意をされたのである。今までの穏やかな、弟子や民衆と親しく、平和に、和やかに語らい、過ごす様子が一変する。それが【エルサレムに向かう】と言う言葉に表れる。み言葉は、私たちの生きている状況の中で、読むべきである。
私たちの生きている、今の状況はどんな時代であろうか? この3 年近く、コロナと言う感染症のため、世界中が苦しめられてきた。今もなおそれは続いている。世界中の人々が変化を求められた。教会も例外ではない。以前は、教会に集まって集会をし、み言葉を聞いてきた。それができなくなってしまった。誰しも慌てふためきながら、どうしたら良いかの模索が始まった。また、今の世界を【不寛容な世界】と表現した。分断が世界中で起こっている。
数年前は、やっと戦争の悲劇から抜け出しつつあるような平和が日本に訪れつつあった。戦後の日本社会は、復興に始まり、発展、そして世界平和に貢献してきた。オリンピックが日本で開催されたのも、新たな時代を迎える、幕開けと考えられた。ところが実際は全く違っていた。
コロナ禍が落ち着いてきたかと思いきや、ウクライナにロシアが侵略するという戦争が勃発した。日本もこれに巻き込まれ、多くの犠牲を払っている。今や世界戦争になりつつある。コロナ禍で、緊急事態宣言が、数回にわたり発出された。今や違った形で、緊急事態が発生している。物価の高騰、それだけではない。家庭にまで、分断は影響を与えている。
【コロナ離婚】と言う言葉が生まれた。兎も角【不寛容な時代】を私たちはいやがうえにも生きていると言えないだろうか? マリアは、イエスの言葉に耳を傾けた。弟子たちに交じって。男勝りと言われようが構わなかった。それこそが今なすべき最も重要なことと考えたのである。平和な、何も起こらない時代ならいざ知らず、今日のように、いつ分断が起こるかわからない時代に生きていて、私たちのなすべきことは一つしかない。み言葉に聞くことである。
それではなぜ、み言葉に耳を傾けるのであろうか? み言葉を聞くとき、重要なのは、それが神の言葉であると言うことである。私たちの、敬虔さ、感情、また経験でさえない。格言のような知恵以上のものである。聖書が、イエス・キリストを啓示する神の言葉であるからである。私たちの救いの源は、神の言葉だけである。それ故、言葉への集中が、キリスト者であるために、必然的結果なのである。私たちは、聖書に耳を傾ける。それは、救いを見出すためである。私たちの人生に於ける救いではなく、イエス・キリストにおける救いを見出すためである。
【聖書は単なる道徳的ガイダンスではない、むしろ神の言葉を含んでいる。それは単なる信仰の情報ではない、信仰を生み出す。喚起すると言って良い。
信仰を知らない人に、信仰を失ってしまった人に、また未だに迷っている人に信仰を届けるのである。だから私たちは、聖霊の働きを祈りながら聖書に耳を傾ける。】(Mcgrath)
今日の旧約聖書の日課を読みましょう。イサク誕生の約束が記されている。アブラハムと神との約束は、二つあった。一つは土地であった。もう一つは、子孫の繫栄である。しかしアブラハムには、なかなか子供が生まれなかった。そこでサラは、自分のつかえめハガルに子を授かることを提案する。しかしイシマエルは、約束の子ではなかった。再び神は、アブラハムにイサク誕生の知らせを伝える。その記事が、18 章である。【主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。ふと目を上げると三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、言った。】(18:1~3) アブラハムは、3 人の客人を、もてなした。最高のもてなしであった。当時の習慣に従ったまでなのか、あるいは神の使いであると知ってか、それは定かではない。いずれにしても、随分と厚いもてなしをした。
明らかに彼らは神の使いであった。彼らは妻のサラに告げた。【わたしたちは来年の今ごろ、、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。】(18:10) それを聞いてサラは笑った。そんな約束、聞くに堪えないというのでしょうか? あるいはあまりにも現実離れしているので、チャンチャラおかしいというのでしょうか? いずれにしても、神の約束を聞くには、全く相応しくない態度です。
否彼らには、すでに約束の信仰は失っていた。ただ残っていたのは、微かなこの世的に生じた処世術であった。それが彼らの信仰であった。
ルターの言葉を聞こう。【私たちは、神の約束に、我々の心をしっかりと留め、そこに信仰の土台を築く以上のことはできない。聖書は、そのような我々を導いて、キリストへと連れて行ってくれる。しかしまず人間としてのキリストへである。神としてのキリストへではない。何故なら、知者たちは、賢い者は、この世の高みからまずはじめようとする。しかし私たちは、最低の地点から、無の地点から、はじめねばならない。】そして箴言の言葉を引用する。
【蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。】(25:27)聖書を聞くものは、常に謙虚な姿勢ではじめねばならないというのとである。