聖書箇所:ルカによる福音書11章1~13節
今日の福音書の日課は、「祈り」についてです。
ところで皆さんは、この「祈り」、あるいは「祈ること」について、どんな思いをお持ちでしょうか。必要なこと、大切なことであることは分かっているが、なかなか難しい、と感じておられる方もいらっしゃるかも知れません。以前もお話ししたことがあると思いますが、私自身、正直、悩んできました。教会生活や聖書を読んでいく中で、先ほども言いましたように、祈ることの大切さ、その必要性を教えられ、祈るわけです。しかし、祈りながら、どうも空々しい自分に気づく。本当に真剣に祈っているのだろうか。
ちゃんと答えられると期待しているのだろうか。どうも「しなければならないこと」と義務的に祈っているだけになっているのではないだろうか。こと執り成しの祈りになると、その人のために本当に心を込めることが出来ているのだろうか。祈りの結果が思うように与えられていないと感じると、ますますそんな思いに取り憑かれてしまい、祈ること自体が苦痛で苦痛で仕方なくなっていきました。そんな中で、私にとっては本当に幸いなことでしたが、一冊の本と出会うことができた。以前もご紹介したことがあると思いますが、O.ハレスビーというノルウェーのルター派神学者が書かれた『祈りの世界』という本でした。
そこには、あなたの祈りが神を動かすのではない、とはっきり書かれていました。それは、私にとっては「コペルニクス的転回」とも言えるものでした。当時の私は、無意識的にも、私の祈りが神さまを動かす(動いていただく)キーになるのだ、と思っていたのでしょう。ですから、祈る相手よりも、祈っている自分にばかりに注意が向けられていたのです。果たして私の祈りは誠実なのか、熱心なのか、心がこもっているのか、少しの不実もない清らかなものになっているのか、そうでなければ神さまを動かす力、神さまに動いていただく鍵にはならないだろう、そんなふうに思い込んでいた節がある。ですから、先ほどの言葉は私にとっては天地が、これまでの常識がひっくり返るような衝撃だったわけです。ともかく、祈りとは決して自明なことではなくて、ちゃんと学ぶべきものなのだ、ということを最初に抑えておきたいと思います。
今日のこの日課は、まずこの言葉によって生まれたことを確認したいと思います。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。このように、弟子たちの祈りを教えて欲しい、との願いから、この祈りの教えがはじまった、ということです。この弟子たちも、ユダヤ教の伝統の中で生きてきたわけですから、祈ることを全く知らなかった、ということではないでしょう。しかし、それでも、おそらくイエスさまは、祈ることの難しさも知っておられたのではないか。だからこそ、この弟子たちの求めに応えていかれたのではなかったか。そう思うのです。
そこで教えられたのが、主の祈りです。私たちもよく知る祈りです。今日は、この主の祈りについての細かな解説は致しません。ぜひ、徳善先生が訳されたルターの『エンキリディオン 小教理問答』をお読みください。この主の祈りの意味を再確認することができると思います。しかし、いくつかのことについては、手短に触れていきたいと思います。
まずイエスさまはこう教えられました。「父よ」と祈れ、と。もちろん、私たちは神さまに向かって祈る訳ですが、その神さまを「父」として祈れ、ということでしょう。実は、これは非常に画期的なことなのです。このように、神さまのことを「父」と呼ばれたのは、イエスさまだけだからです。つまり、ある意味特権とも言える神さまとイエスさまとの関係性を弟子たちにまで広げて下さっている、ということです。私と同じように、あなたたちも神さまを「父」と呼び求めても良いのだ、と。しかも、ここは、「アッバ」という言葉が使われている。これには色々と議論があるようですが、幼い子どもが父親を呼ぶときの呼び方であることは間違いないようです。今風に言えば「パパ」ということでしょうか。たとえ、「パパ」でなくとも、私たちは神さまを親しく「お父さん、お母さん」と呼び求めることができるのだ、とおっしゃる。これは、後でもお話ししますが、非常に心強いことです。
そして、まず祈るべきことは、「御名が崇められますように」ということ。別の翻訳では、「御名が聖とされますように」となっています。こちらの方が本来の意味を表していると言えます。「聖とされる」、つまり、聖別です。これについては、エゼキエル書の言葉が非常に参考になると思います。エゼキエル書36章22節以下、「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。
当時のイスラエルの民は、罪のゆえなのか、不信仰のゆえなのか、とにかく、彼らの振る舞い、存在によって、国々から不評を買っていた訳です。それは、原因を作った彼らだけに止まらず、彼らが信じる神さまにも向けられることになった。御名が汚された、とは、そういうことです。つまり、神さまの顔に泥を塗ったのです。だから、泥を塗られた神さまはご自分で名誉を回復されようとしている、と言われている訳です。
正直に言いまして、私が信仰を持ちましてから随分と長い間、この主の祈りの一番目の祈り「御名を崇めさせたまえ」に強い抵抗感を抱いてきました。それこそ、祈りに応えてくれないような神さまの名前を、なぜいの一番に称えなければならないのか、との不満もあったのだと思います。素直に祈れなかった。しかし、曲がりなりにも信仰生活を続けていく中で、もちろん、その間には悩みも痛みも不満もあった訳ですが、不思議と自分が信仰者として生きる意味、目的は、混じり気のない真心から神さまを褒め称えることなんだ、と思えるようになってきました。何よりも、この主の祈りの第一の祈りが大切なのだ、と。もちろん、これは目標であり祈りでありますので、現在そうだとはとても言えない訳ですが、しかし、確かに主の祈りを祈る姿勢が変わっていったことは感じています。
御名が聖とされる、神さまが神さまとしてありのままにちゃんと受け止められて、ふさわしく崇められることは、ごく自然のことであるはずです。しかし、この世界も、そして私たち自身も、そうはなっていない。それは、やはりどこかに歪みがあるとしか思えないのです。ですから、やはりこの祈りの大切さを噛み締めていきたいと思っています。
そのように、神さまを父よと呼びかけ、御名が崇められることを、御国が来ることを、日毎の糧が与えられることを、赦し合いを求めることを、誘惑から救われることを願い求めるようにと「主の祈り」を教えられた訳ですが、もちろん、この祈りをそのまま私たちの祈りとして祈ることも大切だと思いますが、これらを祈りのエッセンスとして、自分なりの祈りの生活を作り上げていくことも大切ではないか、と思います。そこで、もう一つ大切なことは、祈りの持続性です。諦めない、ということです。先ほど、イエスさまは弟子たち、私たちの祈りの難しさを知っておられたのではないか、と言いましたが、まさにここがそうでしょう。つまり、なかなか祈った答えが得られない、といった実感です。そこで、イエスさまは一つの譬え話を語られました。もうこれは良く分かる譬え話なので、解説は必要ないと思いますが、とにかく、諦めないで「しつように」ということが語られている訳です。今日の旧約の日課のアブラハムの執り成しも共通しているでしょう。
最初は50人だった条件を10人にまでもっていけたのも、その「しつようさ」だったと思います。しかし、では、ただ執拗に祈れば良い、ということを言いたいのでしょうか。そうではないように思うのです。アブラハムのところでも、彼が執り成す前に、ご計画をわざわざ伝えているからです。つまり、あたかもアブラハムの執り成しを期待しているかのように。むしろ、私はこれらのことから、私たちの「執拗さ」が重要というよりも、神さまが私たちに「執拗に」求めることを許して下さっていると写ってならないのです。
今日の日課の8節、「しつように頼めば」の「しつよう」という言葉は、他に「恥知らず」や「図々しさ」などの意味もあるようです。確かに、たとえ友達であったとしても、この人の振る舞いは、「恥知らず」「図々しい」と言えなくもない。しかし、イエスさまは、祈りの時には、それで良い、と言われるのです。しかも、イエスさまは、ただでさえそうならば、親子の間ではなおさらではないか、と言われる訳です。つまり、先ほど言った、「アッバ父よ」ということです。他人であれば、ある意味「執拗さ」は、「恥知らず」にも「図々しさ」にもなる訳ですが、親子の間では、そうではありません。たとえ、子が親に対して、図々しく見えるような「駄々を捏ね」てみても、むしろ、それは正常な親子関係が成立しているからこそのことです。
ですから、イエスさまは「父よ」と祈りなさい、と言われる。他人であっても、「執拗に」頼めば聞いてくれるのだから、まして親子の関係であれば、当然ではないか、と言われるのです。しかも、イエスさまは、父なる神さまは、聖霊をくださるとも約束して下さっていると言われるのです。聖霊とは、私たちが信仰者として生きる上で、必要不可欠な存在であり、力そのものの方です。その聖霊を与えて下さると約束して下さっている。しかも、執拗に聖霊を願った結果でもないのです。私たちは、それぞれの思いで、その必要に迫られて、執拗に、「求め」「探し」「門を叩く」しかできない。この苦しみから救ってください、と。この問題から解放してください、と。時に、ピントはずれの願いを「執拗に」繰り返すだけなのかもしれない。しかし、その結果どうなるか、と言えば、父なる神さまは私たちに聖霊を与えて下さる、というのです。
先ほどは、少しばかり私の祈りの遍歴をお話ししましたが、それらは、まさに、私が何かをした結果ではなく、いろんなことにぶつかりながらも、曲がりなりに「執拗に」祈ることが許されてきたが故に、必ずしも自分の意図、願いとは違っていたのかもしれませんが、知らず知らずの内に聖霊が与えられてきた結果なのだと、今では感謝しています。
「わたしたちにも祈りを教えてください」。そうです。私たちもまた、そこから祈りの生活をはじめていかなければならないのかもしれません。