【説教・音声版】2022年9月11日 聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「あなたは捜されている」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~10節



今日の福音書の日課は、有名な二つの譬え話が取り上げられていました。

確かに、どちらも素晴らしい内容です。失われた者を、神さまが必死に捜し出してくださることを物語っているのですから。しかし、ある方々は、少し戸惑ってしまわれるかもしれません。確かに、見失った、迷子になった、命の危険に晒されているたった一匹の羊を必死に捜し出してくださることは素晴らしいことだが、では、そのために残された99匹はどうなるのだろうか、と。
この99匹の羊たちは、たった一匹を救うために、危険な野原に置き去りにされてしまう、ということなのだろうか。99匹よりも1匹の方が大切だ、ということなのだろうか。どうやら、私は、この捜し出された1匹の方には思えない。だとしたら、私はそれほど悪いことをしていないのに、道を踏み外してはいないのに、むしろ真面目に生きてきたつもりなのに、見捨てられてしまう、ということなのだろうか。そう感じることは、何も不思議なことではないでしょう。ですから、ある方は、この羊飼いの行動は常軌を逸している、とも言っています。

確かに、世の中全てが、こういった理解で進められていけば、かえって社会は混乱してしまうでしょう。ですから、これはあくまでも「譬え話」なのです。ある事柄を伝えたいがための、「譬え」を用いた話に過ぎない、ということです。では、この「譬え話」で伝えたかったことは何か。たった一人でも、悔い改める人がいるならば、神さまはそのことを大いに喜ばれるのだ、ということです。非常識なほどに、このたった一人でも、ということを言いたいがために、99匹の羊があり、9枚の銀貨がある訳です。

今日の箇所だけではありませんが、聖書のある箇所を理解するためには、その前提となっている事柄、背景を知ることが非常に大切になってきます。今日の日課では、1節以下でこのように記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。

聖書の中では度々出てくる図式ですが、偏見や差別を厳しく戒められている私たちとしては、肌感覚としては分かりにくいところがあるようにも思います。なぜ、徴税人や罪人と言われる人たちが、これほどまで目の敵にされているのか、よく分からない。確かに、そうです。しかし、現代でも、形は変わっても、ヘイトスピーチをはじめとする自分達の正義感、道徳感、価値観、世界観などで憎悪・分断が起こっていることも、私たちはよく知っています。私たち自身、なおも無縁ではいられないことを戒めていかなければいけない。
そういう見方もできると思います。しかし、今日の箇所が言いたいことは、そうではないのです。ファリサイ派、律法学者たちに、偏見・差別をやめなさい。互いの違いを取り去って和合し、共生していきなさい、ということではないのです。もちろん、それらも大切なことに違いないが、そうではない。なぜなら、一人の罪人が悔い改めることの喜び、だからです。彼らファリサイ派・律法学者たちの認識を正し、徴税人や罪人と言われる人たちは、実は罪人なんかじゃない、と言いたいのではない。そうではなくて、彼らは確かに罪人なのです。少なくとも、神さまの目にはそう写っている。しかし、そんな罪人一人を、神さまは、イエスさまは必死に捜し出されるのだ、険しい崖を駆け降りて、道なき道を歩き続けて、ついに失われた羊、罪人を見つけ出して、家に連れ帰るのだ、と言われる。それが、大いなる喜びなのだ、と言われるのです。

聖書が、福音が強調することは、罪が赦される、ということです。罪などない、と罪を誤魔化したり、みんながやっていることだから大したことではない、と軽く見積もることでもない。罪を罪として、正面から向き合うこと。そして、その上で、恵みの神さまは、そんな私たちの罪をことごとく赦してくださっているのだ、イエスさまがあの十字架で罪を贖ってくださったのだ、と信じること。それが、福音です。

教会・キリスト教は、そんなふうに、罪、罪、罪と内省が過ぎるのではないか。あまりにも自己卑下的なのではないか。潔癖過ぎるのではないか。だから、この現代日本社会になかなか浸透していかないのではないか。そういったご意見もあるのかもしれません。確かに、教会は間違った罪の意識を植え付けてしまった面も否めないと思います。結果、ある人々を追い込んでしまうことになったかもしれない。反省すべき点はあると思いますが、しかし、だからといって、この罪の問題を無視・軽視することとは別のことだと思うのです。

「羊の群れのいる風景」:1840年 ヨハン・ヴィルヘルム・シルマー


今日の使徒書の日課である『テモテへの手紙』はパウロの作だと考えられて来ました。このパウロ、実にユニークな人だと思います。なぜなら、今日の箇所の悔い改める必要のない99匹側の人間だと思っていたファリサイ派と、自分はイエスさまによって捜し出された一匹の羊なのだ、と受け止めた罪人の側と、この両方を経験したからです。彼は、かつての、つまり熱心なファリサイ派だった頃のことを、このように語っています。1章13節「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。…わたしは、その罪人の中で最たる者です」。

そうです。彼は知らなかったのです。むしろ、それが正しいことであるとさえ思っていた。これが熱心に神さまに仕えることになるのだ、と。それが、間違いであったことに、罪であったことに気づけたのはいつか。イエスさまと出会った時です。この出会いによって、今までとは全く別の次元で物事を見ることができるようになったからです。

変な例えかもしれませんが、私たちは先の戦争をどのように評価するでしょうか。先の悲惨な戦争へと突き進んだ軍部を、政治を、民衆を、どう評価するのか。おそらく、明らかに間違っていた、と思うでしょう。しかし、それは、戦争に敗れ、新たな価値観や世界観を手に入れた私たちだからこそ、見える景色なのです。ですので、私たちは、歴史を検証し、批判することは大切なことだと思いますが、それと軽々に個人を断罪することとは分けて考える必要があると思います。

実際に、私たち自身も、どっぷりとその時代に浸かって生きていたら、どのような選択をするか分からないからです。もちろん、別の選択をした可能性も否定できませんが、そうではなく、積極的に戦争に向かう選択をしたかもしれない…。それは、今のロシア国内にも言えることなのかもしれません。そういう意味でも、知らないこと、気づけないことは、恐ろしいことです。

そうです。知らないのです。知らなかったのです。それが、過ちであるということが。間違いであるということが。罪であるということが。では、知らなければ罪を犯しても良いのか。そうではない。例え知らないで犯したとしても、それは罪です。罪という自覚がないとしても、罪なのです。それを、パウロは、イエスさまとの出会いによって知った。いいえ、ただ知らないで犯していた罪の自覚を得ただけでなく、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ことを知ったのです。

そして、そんなイエスさまに赦された罪人の、自分は最たる者だということを知った。だから、続けて彼はこう語っていきます。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。これがパウロの福音宣教の原動力になったことは、明らかでしょう。
罪の自覚が目的なのではありません。しかし、同時に、罪を無視することとも違うのです。罪人を救う方と出会うためです。この私を、必死に捜し出してくださる方と出会うためです。

今日私は、改めて自戒の念を込めて1節の言葉を聞いています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。もしイエスさまが、単にファリサイ派や律法学者たちのように、正しさを、罪の問題を説くだけの方なら、おそらく彼らはイエスさまに近づいては来なかったでしょう。なぜなら、罪の自覚があればあるほど、神さまに近づけなくなるからです。彼らはおそらく自覚していた。自分たちなど神さまの前に立てるような人間ではないということを。最初に言いましたように、彼らは単に社会の犠牲者ではありませんでした。

実際に罪を犯す臑に傷を持った人たちです。嘘をつき、人から騙し取り、不道徳な生活を送る。分かっている。自分達が神さまから裁かれる人間なんだと。だから、むしろ無視して生きるしかない。現実を楽しむしかない。目先の利益を追い求めるしかない。割り切って、どうせ一度の人生なのだから、と腹を括るしかない。だから、おそらく、彼らは宗教的な儀式にも近づかなかったのかもしれません。近づけなかったのかもしれない。そんな彼らが、イエスさまの話を聞きにやってきたのです。

今日の第一の朗読(旧約の日課)は、詳しくは話しませんが、モーセが必死に執り成しをして、神さまの怒りを鎮めた、といった内容だったと思います。なぜそれが、第一の朗読として読まれたのか。このモーセの出来事とイエスさまとが重なったからでしょう。罪は罪。神さまはその罪を放ってはおけないし、罰しなければならない。しかし、それは本意ではないのです。ですから、モーセが、イエスさまが必死に執り成しをする。罪人が罰せられ滅びないで済む、つまり、救いの道を開かれたのです。それが、イエスの十字架。だからこそ、そんなイエスさまだからこそ、罪人が集まってくるのです。

しかし、果たして、それは、徴税人や罪人だけなんだろうか。そうではないはずです。ファリサイ派の人だって、律法学者だって、自分達は99匹に属すると思っているかもしれませんが、視点を変えれば、全く違った次元、パウロが見た同じ視座に立てば、自分達もまたイエスさまが必死に捜し求めておられる失われた一匹の羊であることに気づくはずなのです。そのためにも、つまり不平を言っていたファリサイ派や律法学者たちのためにも、この譬え話は語られているのではないでしょうか。お前たちもまた、見つけられた一匹の羊ではないか、と。お前たちの一人が悔い改めるならば、天には大きな喜びがあるのだ、と。

日本の教会が、相変わらず敷居が高いと言われることの中に、もしこの一匹の羊、一枚の銀貨といった視点が見失われているとしたら、私たちは大いに反省しなければならないのかもしれません。私も、あなたも、またまだ教会に来られていない方々も、イエスさまが必死に捜し出される一匹の羊、一枚の銀貨なのですから。