【 説教・音声版 】2022年9月25日(日)10:30  聖霊降臨後第16主日礼拝 「どちらを望む? 」 浅野 直樹牧師



聖書箇所:ルカによる福音書16章19~31節

本日の福音書の日課も、大変有名な「金持ちとラザロ」という譬え話になりますが、その譬え話に入る前に、これまでの流れ・経緯を少しおさらいしておきたいと思っています。なぜなら、今日の譬え話も、そんな一連の流れの中で語られたものだからです。

まず、この一連の流れは、15章1節からはじまりました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。この様子を見ていたファリサイ派や律法学者たちは、面白くなかったのでしょう。こう不平を言う訳です。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「この人」とは、もちろんイエスさまのことです。イエスさまが、いわゆる「罪人」たちを仲間として迎え入れていたことが我慢ならなかった訳です。そこで、あの有名な三つの譬え話が語られました。「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」、そして「『放蕩息子』のたとえ」です。どれもが、罪人たちを迎え入れようとされる神さまの御心を語るものでした。

そして、先週の日課です。この箇所では、話の対象が弟子たちにまで広げられたものでした。16章1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」。そこで、光の子である弟子たちにも、この世の子らに負けず劣らずの「抜け目のない」賢さを求められ、この世の富で友を得るようにと語られたのでした。そして、こうも語られた。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

この一連の話を聞いていたファリサイ派の人々がこのように反応したと16章14節には記されています。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」と。それが、今日の譬え話が語られるきっかけとなった訳です。

先ほども言いましたように、これらの話の対象が、ファリサイ派・律法学者、弟子たち、そしてファリサイ派と移っていったように思われますが、どの話もこれらファリサイ派の人たちは聞いていたことになります。そして、こと先ほどの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」の話に及んだ時、「何を馬鹿馬鹿しいことを…」とイエスさまをあざ笑ったのです。なぜなら、彼らは「金に執着」していたからだ、と聖書は語っていきます。ですので、今日のこの譬え話に登場してくる「金持ち」は、そんなファリサイ派の人々がモデルになっていることは間違いないでしょう。

ところで、今日のこの譬え話でイエスさまはこう言われました。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。つまり、「モーセと預言者に耳を傾け」ることで十分だ、と言うことでしょう。いわゆる、私たちの言うところの旧約聖書です。この旧約聖書に触れながら何も起きなければ、どんなことをしたって信じないだろう、ということです。たとえ、死者の復活という途方もない奇跡を体験したとしても。なぜか。私たちの信仰とは、あくまでも神さまの言葉に基づくものだからです。

よく誤解されやすいことですが、新約聖書を持っている以上、もはや旧約聖書など必要ない、といった意見が一方ではあります。あるいは、イエスさまは旧約聖書を、律法を廃棄されたのだ、と。しかし、この譬え話からも、それらの間違いは明らかでしょう。16章17節では、もっと直截的に語られています。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」と。そうです。イエスさまは、「モーセと預言者」、旧約聖書を非常に大切にされているのです。ここが、ポイントです。なのになぜ、同じように旧約聖書を大切にしているはずのファリサイ派、律法学者たちとこうも違うのか、ということです。彼らは聖書から、律法を守らない徴税人や罪人らは救われない、という。イエスさまは同じ聖書から、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と語られる。同じ聖書であるはずなのに、どうしてこんなにも違うのか、ということが、私たちも考えなければならない重要な点だと思うのです。

先ほどは、イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」との言葉にあざ笑ったのは、彼らが「金に執着」していたからだ、と言いました。しかし、どうも、この「金に執着」するという言葉の印象が、私たちのとは違うようなのです。果たして、この譬え話に出てきます「金持ち」は、私たちのいうところの「金に執着」しているような印象があるでしょうか。私たちは、この「金に執着」していると聞くと、なんだか不正の匂いを感じ取る訳ですが、この「金持ち」にはなんら不正はないのです。誰かから騙し取ったり、このラザロのような貧しき者から搾取したり、権力を傘にして私服を肥やしていたり、といったことがまるでない。
ただ、「金持ち」だった、というだけです。ですから、この「金持ち」が死後陰府で苦しんでいる理由を聞いて、私たちも困惑するのではないでしょうか。25節「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。

ラザロの魂が死後天使によって天国に運ばれ、金持ちの魂が悪魔によって地獄に連れて行かれ、拷問される様子を示す11世紀の絵画。 https://ja.wikipedia.org/wiki/金持ちとラザロ


先ほども言いましたように、「金に執着」する悪事という理由があれば、彼が陰府・死者の国で苦しむのも、ある意味理解できます。しかし、単に金持ちであったという理由で、何不自由なく快適に暮らして来たという理由で、死後苦しまなければならないなど、納得できるでしょうか。ですから、この「金持ち」に何らかの落ち度を見つけようとさえする訳です。このラザロを無視して、助けなかったことが、死後の苦しみの原因になったのではないか、と。しかし、聖書はそうは語らない。むしろ、この「金持ち」はラザロの存在を知っていた。ある方は、この「ラザロ」を自分の家の門前にいることを許していただけでも大したものではないか、と言われます。

もし、あなたの家の前に、同様の全身おできだらけの貧しい身なりをした男がいたとしたら、同じようにできたか、と。また、ある方は、ある程度の援助はしたのではないか、と言われる。「ラザロ」という名前を知っていたということは、何らかの関係性があったからではないか、と。そうかも知れません。しかし、聖書は、そういったことには関心がないのです。苦しみの理由探しをしたい訳ではない。そういったある種の天国と地獄の分かれ道といったことが、この箇所の目的ではない、ということは、押さえておく必要があるように思います。

なぜファリサイ派の人々は、イエスさまをあざ笑ったのか。イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」がナンセンスに思えたからです。なぜなら、富とは神さまがもたらされるものだ、と信じていたからです。両者は切り離せないと考えていたからです。むしろ、富とは神さまの恵み、祝福の象徴だった。だから、信仰心とも深く結び付けられていた。神さまに従う者が富み、神さまに従わない者は貧しくされるのだ、と。これも、聖書からです。確かに、聖書には、そういった事柄も書いてある。ですから、彼らの金の執着心とは、彼らなりの信仰理解とも深く結びついていた訳です。富が与えられているということは、神さまに認めていただいている証拠なのだ、と。

ですから、彼らの理解からしたら、このイエスさまの譬え話は、全くあり得ないことです。神さまに祝福されているはずの金持ちが、陰府で苦しむことになり、神さまから見捨てられているような貧しきラザロが、アブラハムの懐に抱かれるなど、あってはならないことなのです。
繰り返します。これは、同じ聖書から来ているのです。同じ聖書から、一方は、神さまに従い、一所懸命に生きてきた正しい人こそが、救われるのだ。神さまは、そんな正しい人たちを、この地上の生活においても報いておられ、そんな祝福の象徴である富める者こそが、天の宴会に連なることが許されているのだ、と信じている。一方、同じ聖書から、神さまは罪人の一人でさえも救いたいと欲しておられるのだ。そのためには、なりふり構わず、その罪人を探そうとされているのだ。たとえ、この世では不遇な・不幸な生涯を送ろうとも、それは滅びに定められているからではなくて、むしろ救いに与らせようとされておられるのだ。あなたも、その一人なのだ、とイエスさまは語られる。

同じ聖書です。なのに、どうしてこれほどまで違いが出てしまうのだろうか。しかも、同じ聖書を尊んでいるはずなのに、どうして彼らファリサイ派、律法学者たちは、イエスさまの理解を受け入れようとせずに、むしろ否定し、殺してしまおうとするのか。これは、2000年前のイエスさまとユダヤ人との間のことだけではないように思うのです。現代においても、大きな問いになるのではないでしょうか。

イエスさまは、御言葉だけで十分だ、と言われます。たとえ、途方もない奇跡を体験しようと、御言葉に取って代わるようなことはないでしょう。ここに、私たちの信仰の基本的な立ち位置がある。では、御言葉を尊ぶとはどういうことなのか。まずは、御言葉は多様な解釈が可能だ、ということを謙虚に受け止める必要があるでしょう。私たちの理解だけが絶対であり、その他は間違っている、というのは、先ほど来言っていますように、あのファリサイ派の人たちの間違いを繰り返さないとも言えないからです。

では、自分達の思うままに自由に理解すれば良いのか。それも違う。私たちは自分を信じるのではないからです。私たちは、イエスさまを信じる。イエス・キリストを信じる。ですから、イエスさまから聞くこと抜きに、私たちの信仰はあり得ないのだ、ということも覚えていきたいと思います。