聖書箇所:ルカによる福音書17章5~10節
本日の日課では1~4節までは除かれていましたが、新共同訳聖書では一つのまとまりとして捉えられており、と同時に、小見出しにもありますように、三つのそれぞれ独立したテーマ̶̶ある解説を読みますと、4つのテーマ、罪(つまり、つまずきを与える事ですね)、赦し、信仰、奉仕に分けられていました̶̶を持った箇所のように思われます。確かに、そうだと思いますが、しかし、その中でも中心になるのは、テキスト自体も真ん中に配置されていますように、「信仰」ということになるのでしょう。なぜなら、「信仰」がなければ人を赦すことも、また正しき動機のもとで奉仕することも、ままならないからです。
では「信仰」とは何か。実は、これがなかなか難しい。もちろん、私たち信仰者にとって「信仰」とは、なくてはならないもの、非常に大切なもの、であることに違いないわけですが、しかし、実はよく分かっていないようにも思うからです。個人的には、これは信仰人生を賭するような大きなテーマではないか、とも思っています。
ともかく、先ほど読んでいただいた今日の旧約の日課は、そんな「信仰」について、私たちが考える上で一つのきっかけを作ってくれるような、そんな御言葉だと思っています。これも、開くのが大変難しい、あまり読むことのない旧約聖書の後ろの方、12小預言書の一つ、ハバクク書1章です。2節から、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに あなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」。私たちもまた、このハバククの嘆きを知っているのではないでしょうか。個人的にも、社会的にも…。
またロシアは、大変なことをしでかしました。国際社会では到底許されない暴挙です。これによって、ますます核戦争の危険度が高まった、との指摘もあります。私たちは祈ってきました。一日も欠くことなく祈り続けてきました。なのに、この有様です。まさに「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに あなたは聞いてくださらない」です。祈りが虚しくさえ思います。ロシアだけではありません。私たちの耳に入ってくるだけでも、世界の彼方此方に、あるいは国内さえも「律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」という現実を見せられている。神さま、あなたは本当におられるのですか、と問いたいくらいです。
このハバクク、エレミヤと同時代、紀元前7世紀の終わり頃に南ユダ王国で活躍した預言者のようです。先ほどもご一緒に見てきましたように、この時代の南ユダ王国では、不正義と混乱が蔓延っていたのでしょう。神さまを見出せないような社会が広がっていた。そんな中で、たびたびご紹介しています雨宮慧(さとし)神父が非常に興味深いことを記しておられますので、少し読ませて頂きたいと思います。「ハバククと同じように、彼の同時代人エレミヤも『神に逆らう者の道が栄えている』という現実に納得できず、神に問いかけています〔エレ12:1〕。
エレミヤを苦しめる原因は、信仰と現実との遊離(離れて存在しているの意味)にあります。このような場合、信仰を捨てて現実に流れることもできるし、逆に現実から目をそらして信心の世界に閉じこもることもできますが、エレミヤやハバククが選んだ道は、信仰と現実のどちらも否定せず、『なぜですか』と神に問いかけるという道です。……神に『いつまでですか、なぜですか』と問うことは、不信仰の現れではなく、むしろ信仰の表明です」。そうです。なぜ私たちが悩むのかといえば、信仰と現実が遊離・乖離しているように思えるからです。そこで、問わずにはいられなくなる。「神さま、なぜですか」と。どうして「祈りに答えてくださらないのですか」と。しかし、それは不信仰の印ではなくて、むしろ「信仰の表明」なのだ、と雨宮神父は語るのです。ここに、「信仰」の一つの姿がある。
続けて、日課はこう語っていきます。2章1節「わたしは歩哨の部署につき 砦の上に立って見張り 神がわたしに何を語り わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。そうです。問うことだけではない。問うことで終わらない。神さまの答えを待つ。これも、私たちの信仰。その結果、どうなったのか。「『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』」。神さまには、私たちには見えてないご計画があるのだ、と言います。それは、定められた時に、必ず実現されるのだ、と。しかし、こうも語られる。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」。ここがいい。つまり、遅くなることがあり得る、ということです。
つまり、私たちが思う、期待するようなタイミングでは必ずしもない、ということです。これも、私たちの知るところです。私たちが願ったような答え、助け、タイミングではなかったかも知れませんが、しかし、振り返ってみたとき、あの時には見えていなかった、気付けなかった神さまの恵みが、答えが、ここかしこにあったことに気付かされてきたからです。だからこそ、私たちは今でも信仰者として生き続けている。
祈り求めることも信仰。問うことも信仰。待つことも信仰。聞くことも信仰。気付くことも信仰。私たちの信仰には、いろんな側面がある。
そんな「信仰」を今日の日課で、弟子たちは「増してください」と願う訳です。然もありなん。4節で「一日に七回」罪を赦すようにと言われたのですから、自分達の力では不可能だ、と思ったからでしょう。その気持ち、私たちにも良くわかる。しかし、そんな弟子たちに対して、イエスさまはこう答えたのでした。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と。これは、なかなか解釈が難しいところですが、要するに、ほんのわずかな信仰でさえも、奇跡の力がある、ということでしょう。そこで、私たちははたと立ち止まってしまうのかも知れない。果たして、私たちには、そんな奇跡を起こすような信仰があるのだろうか、と。
そこで、もう一度考えてみたいと思います。信仰とは、誰のものなのか、と。弟子たちは、先ほども言いましたように、自分達の信仰を増してください、と願いました。それは、自分達の信仰心・信心を強めてください、と言うことでしょう。それに対してイエスさまは、信仰はからし種一粒で良い、と言われるのです。つまり、自分の信仰心・信心ではない、と言うことでしょう。そうではなくて、与えられるものです。いいえ、すでに与えられているものです。その信仰だけで、奇跡が、つまり不可能が可能になるのです。考えてみてください。信仰のなかった頃のことを。その頃の私たちは、今のような考え方を、受け止め方を、痛みを、悩みを、願いを、希望を、持っていたでしょうか。
つまり、先ほども言いましたように、信仰者だからこそのわたしたちへとすでに変えられている、ということです。人を赦せないことに悩み、人を赦せるようにと祈り、なぜ祈っているのにと問い、また御言葉へと帰っていく。そんなことは、かつてはなかった。それが、奇跡でなくて何だろうか。頑なな私たちの心が、たとえ不十分だとしても、そのように変えられたのは、御言葉に捉えられているのは、不可能を可能にする神さまの力ではないか。そんな信仰ではないか。そう思う。そうです。自分の力ではないのです。相変わらず、私たちはそれを求めてしまいますが、そうではない。そうではなくて、自分には出来ないことを神さまはしてくださったという体験です。その体験の積み重ねが、信仰になる。
そんな信仰を頂いた者はどうなるのか。「僕」となる。ここに一つの譬え話が記されていますが、ここにある「僕」とは奴隷のことです。私たちには、もちろん馴染まない訳ですが、しかし、奴隷とはこのような者のことです。私たちは、この僕の姿を見てどう思うか。理不尽だと思うか。嫌悪するのか。そうかも知れない。主人の言いなり、そんな姿に私たちは耐えられないのかも知れない。
しかし、それは、果たして単純に、奴隷制に対する嫌悪なのだろうか。もちろん、今日奴隷制など全く認められないことですが、そんな嫌悪感の中に、私たち自身が仕える相手に恵まれなかったこともあるのではないか、と思うのです。夫、妻、親、家族、教師、上司、先輩たち。奴隷だからといって直ちに不幸だったのか。もちろん、そうです。しかし、中には、その主人に仕えることができることに喜びと誇りを感じる者たちもいた。主人が素晴らしいからです。私たちの主人は誰か。私たちは誰の僕・奴隷なのか。イエス・キリスト。私たちを愛し、愛し抜き、私たちのために、ご自身の命まで差し出し、私たちを悪の、罪の奴隷から買い取って下さった方。この方が私たちの主人(あるじ)。
ならば、この僕の「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉は、どんな響きで聞こえてくるのだろうか。悲壮感・絶望感漂う響きか。それとも、感謝と誉れ、喜び伴う響きか。
私たちは信仰に生きています。これからも生きて続けていきます。だからこその悩みも多い。時に、御言葉に躓きそうになったり、潰されそうな思いになることだってある。だから、問う。問わずにはいられなくなる。果たして、私には信仰があるのだろうか、と。信仰に生きられるのだろうか、と。しかし、それが信仰です。信仰者です。その度に、自分ではなく神さまの恵みに、へと移らされていくのが、信仰なのです。そこに、赦しに、奉仕に、生きる道筋もまた生まれてくる。そうではないでしょうか。