聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節
「一年の計は元旦にあり」。
ご承知のように、教会の暦としてはすでに新しい年がはじまっている訳ですが(待降節からということになります)、やはり日本人の私たちとしては、この「元旦」というものが重い意味を持っているようにも思います。
しかも、今日は奇しくも何年かぶりに元旦と主日(日曜日)が重なりました。そんな思いで今朝の日課を読んでいますと、「おやっ」と違和感を感じたのは私だけでしょうか。今朝の福音書の日課は、いわゆる「終末(世界の終わり)」に関わる記事の一つだったからです。このめでたい一年のはじまりに、終わりについての記事が日課として与えられているとは、これいかに…。そう思わせられました。
しかし、よくよく考えてみれば、もっとものことなのかもしれません。なぜなら、何かをはじめるということは、その目的、ゴールがあるからです。別の言い方をすれば、ある目的、ゴールがあるからこそ、このようにはじめていこう、と「はじまり」についての心構えができるからです。そういう意味では、この一年のはじまりの元旦に、この一年の、あるいは、私たち自身の生涯の、世界の目的、ゴールを見つめ直す、ということは、有意義どころか、正しいことなのかもしれません。
先ほども言いましたように、今日の日課は、終末(世界の終わり)に関わる記事でした。その中でもここでは特に、審判について記されています。世界の終わりとは、審判の時でもあるからです。私は今、あえて「審判」といった言葉を使いました。通常は、「裁き」という言葉が使われるのかもしれませんが、しかし、この「裁き」といった言葉のニュアンスに、どうしても「処罰、刑罰」といったイメージがつきまとうからです。もちろん、刑罰といったニュアンスも確かにあります。今日の箇所でも、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」とあるからです。
しかし、本来はジャッジ(判定)することなのです。正しいか、正しくないか、ルールに則っているか、ルール違反をしているか、その判定をする。だから、審判。その分けられた結果として、祝福か刑罰かがある。そういう意味では、確かに厳しいのですが、つまり、何が言いたいかといえば、処罰するために「裁き」「審判」が行われる、ということではない、ということです。罰するために、刑を執行するために、「裁き」があるのではない。そうではなくて、判定されるということです。
私たちの言動が、生き方が、あり方が、判定される。その結果として、分かれ道が生まれる。ですから、そもそも終末・「審判の時」というのは、恐ろしいだけの時ではないのです。むしろ、報われる時でもある。今まで誰も認めてくれなくても、誰からも感謝されなくても、評価されなくても、最後の最後には神さまがちゃんと見ていてくださり、正しい判断をしてくださり、私たちが頑張ってきた、取り組んできたことにもちゃんと報いてくださる。祝福を与えてくださる。それが、終末・審判の時なのです。
では、何がその分かれ道になるのか。今日の日課で言えば、「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったか、ということです。この「最も小さな者」というのが、一体誰を、どんな人たちを指すのかは、色々と議論されているところですが、今日は詳しくお話はしません。皆さんめいめいが、自分にとっての「最も小さな者」とは一体誰のことなのかを考えて頂ければと思います。ともかく、そんな「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったかが、ある意味決定的な分かれ道になる、というのです。
ここで注意したいことは、この「最も小さな者の一人」はイエスさまではない、ということです。後者、処罰されてしまう人たちだって、イエスさまだとはっきりと分かってさえいれば、何がしらのことをしたでしょう。むしろ、それが何らかの功績になると思って、人一倍に熱心にしたかもしれません。だから、彼らはこう言い張るのです。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。
ここには、もし知っていたなら、きっとお世話をしたはずです、といった思いが隠されていると思います。そうです。そういう意味では、この「最も小さな者の一人」とは、イエスさまのことではなかった。しかし、イエスさまは続けてこう言われる。「はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と。あるいは、前者、祝福された人たちに対しても、こう言われていました。
「『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」。
この両者を見てはっきりしていることは、いずれにしても、この「最も小さな者」がイエスさまだとは、誰も思っていない、ということです。この人たちに何かをすることが、イエスさまに奉仕することになるとは、誰も思っていない。そういう意味では、この「最も小さな者」とイエスさまは別物です。しかし、それにも関わらず、イエスさまは、この人にしたことは私にしてくれたことだ、とおっしゃる。それほどまでに、イエスさまは、この「最も小さな者」を心に留めておられる、ということでしょう。この人の幸いを誰よりも願っている。
先ほどは、この「最も小さな者の一人」とは、一体誰のことなのか、詳しくは話さない、と言いました。めいめい考えてほしい、と。確かに、時間の都合上も詳しくは話せない。しかし、「最も小さい」ということは、誰かの、何らかの助けが必要な人だ、ということは確かでしょう。それは、財産家か、貧しい人か、健康な人か、病を患っている人か、あまり特定するのは意味がないのかもしれません。なぜなら、誰もが助けを必要としているからです。金持ちだって、健康な人だって、そうでしょう。つまり、普段は小さくなくても、逆に大きく見えても、誰もが小さくなる時がある、ということです。つまり、私たちも、です。私たちも小さくなる。小さな一人になる。
そんな私たちに、水一杯でも差し出してくれるなら、それはイエスさまに奉仕したことと同じなのだ、とおっしゃってくださるのです。もちろん、逆もそうです。私たちが、誰かに水一杯を、まことに小さな奉仕をする。それは、知らず知らずの内に、イエスさまに奉仕していることになる。それほどまでに、イエスさまは、私たちも含めて、この小さき者たちを、そういう意味では、世界中の全ての人たちを心に留めておられる。その一人一人の幸いを願っておられる。お互いに助け合うことを望んでおられる。そうではないか。
先ほどは、「小さな奉仕」と言いました。ある方も指摘されているように、ここに出てくるのは、それほど大したことではありません。皆さんも、全部とは言えなくとも、一つ二つは経験があるのではないでしょうか。実は、それが大事なのです。大それたことでは決してない。本当に小さな、わずかなこと。しかも、イエスさまは、「この最も小さな者の一人に」と言っておられる。一人です。たった一人でも良いのです。
なぜ私たちは、仕えることが、奉仕することができなくなるのか。こんなものは小さすぎて役に立たない、と思うからです。こんなことで、人が救えるのだろうか、と思うからです。その人の生活を改善できるのだろうか、と思うからです。もちろん、そうできたらいい。そういった社会が望ましい。しかし、ここで言われているのは、そうではない。水一杯でいい。一食分でいい。使わなくなった着物でいい。不安になっている人、孤独に陥っている人と、いっとき交わるだけでいい。その人の人生を丸ごと抱えるなんてできない。その人の問題を根本的に解決することなどできない。その人の生活を保証してやることもできない。
自分の生活を、家族を犠牲にしてまで助けることなどできない。無力さを感じながら、大した犠牲も払えない、生活を変えてまではできないと多少の後ろ暗さを覚えながら、こんなことをしたって結局は偽善でしかないのではないかと戸惑いながら、献金箱・募金箱に幾らかばかりのお金を投じるだけなのかもしれません。もちろん、それで十分だ、完璧だ、もうやり残したことはない、ということではないでしょうが、それでも、そんな小さなことでも、不十分で、申し訳なくって、役に立てているようには思えないようなごくごく小さなことでも、イエスさまは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と受け止め、評価し、喜んでくださっているのです。
もちろん、私たちの信仰の基本は、「信仰義認」です。恵みによって、一方的な神さまの恵みによって救っていただけるのです。自らの力、善行で救いを勝ち取るのではない。もちろん、そう。しかし、私たちは今年、「一年の計は元旦にあり」という元旦に、この御言葉が与えられたのです。ならば、私たちはこの御言葉からこの一年をはじめていきたいと思う。
たとえ小さなことであったとしても、こんなこと役に立つのかと思えるようなことであったとしても、私たちの助けを必要としている人々に対して、小さな業を積み重ねていきたい。また、この私たちに対して、小さな業をしてくれた人々に感謝していきたい。そのようにして、ほんの少しでも、少しずつでも、イエスさまが望まれた世界、神の国の実現に繋げていきたい。そのための宣教にも励んでいきたい。
そう願っています。