聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節
本日は「主の洗礼」主日の礼拝ですので、イエスさまの洗礼の場面が日課として取り上げられていた訳ですが、その冒頭に出てくる言葉、「そのとき」とは、いったいどんな
「時」を指すのでしょうか。もうお分かりのように、直前に出てきます洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた場面が、その「時」です。ご存知のように、当時行われていた洗礼とは、全身を水の中に沈める(浸ける)というものでした。「バプテスマ」という言葉の意味も、もともとはそういう意味です。では、そんなバプテスマ・洗礼にはどんな意図があったのか。ひとことで言えば「悔い改め」です。罪の「悔い改めのバプテスマ・洗礼」です。3章1節でこう記されているからです。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」。
あるいは、その後の5節では、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されている通りです。しかも、生半可な覚悟
では許されなかったようです。洗礼を受けにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちに対して、こう言われているからです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。
これは、大変厳しい言葉です。このように、人々に徹底的に罪の自覚を持たせて、真剣な悔い改めを求めていったのが、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼(バプテスマ)でした。そこに、その洗礼の現場に、イエスさまが来られたのです。罪の自覚に悩まされて、悔い改めを、赦しを求めてやってきた多くの人々の列に連なって、イエスさまは順番を待って、来られた…。このヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるために。だから、ヨハネは困惑したのです。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』」と。
何週間か前、去年のことですが、待降節の中で何度かこの洗礼者ヨハネを取り上げた時がありました。ヨハネは神さまによって遣わされたイエスさまの先駆者だからです。しかし、そのヨハネでさえも、十二分にはイエスさまのことを理解できていなかったこともお話ししたと思います。11章にこうあるからです。2節以下、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。自分が証しすべきメシアが本当にイエスさまなのかどうか、揺れる心の内が見事に描写されていると思います。そんな困惑は、実はすでに、この洗礼の時に芽生えていたようにも思うのです。なぜなら、洗礼者ヨハネが思い描いていた、待ち望んでいたメシアとは、このような方だったからです。
「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。洗礼者ヨハネが思い描いていたメシア・救い主とは、まさに終末の審判者メシアでした。神さまの厳正な正義のもとで人々を裁き、救いに至る者と滅びへと向かう者とを審判される、そんな自分なんか足元にも及ばないほどの遥かに優れた方だったのです。だからこそヨハネは、とんでもない、私こそがあなたから悔い改めの洗礼を受けるべき者です、というほどだった訳です。
そうです。これは何も、洗礼者ヨハネだけの特異な理解ではなかったはずです。神さまから遣わされるメシア・救い主とは、本来そういうもの。罪などない、少なくとも悔い改めの洗礼など全く必要としない、神さまの「聖」に与る存在。それがメシア。誰だって、そう思うはずです。現に、それが私たちの信仰でもある。ヘブライ人への手紙にもこうある通りです。「この大祭司は(これはイエスさまのことですが)、…罪を犯されなかったが、」。
そうです。私たちのメシア・イエスさまは罪を犯されなかったのです。罪の全くないお方です。そういう意味では、私たちとは根本的に違う。罪を犯さざるを得ない私たちとは違うのです。しかし、先ほどのヘブル書はこう語っていきます。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。
そうです。イエスさまは私たちとは違うのです。罪を犯されなかったのです。それにも関わらず、私たちと同じようになられたと語られている。だから、イエスさまは本来必要でもないのに、むしろ、私たちと同じになるために、悔い改めの洗礼を受けてくださった。それを拒もうとするヨハネを無理矢理に説き伏せるようにして、私たちと等しく赦しを必要とする罪人となってくださった。だからこそ、イエスさまは十字架の道を歩まれたのです。この洗礼の出来事自体が、既にその始まりを予告していると言っても良いのかもしれません。
イエスさまの洗礼は、ひとことで言えば「連帯」です。私たちと、しかも赦しを必要とする罪人である私たちと「連帯」するために、不必要な洗礼さえもあえて受けてくださいました。その「連帯」…、北森嘉蔵氏は「連帯保証人」とも表現しておられます。これは非常に面白い、また意味深長なご意見だと思っています。私は母親から口酸っぱく、いくら親しい仲だとしても、決して保証人・連帯保証人にはなるな、と言われてきました。ご承知のように、借金した人が返せなくなった場合は、肩代わりをしなければならないからです。これが、ある意味普通の感覚でしょう。なのに、イエスさまは、そもそも借金だらけの私たちと、しかもその借金を返すあてもないような私たちと、むしろ積極的に連帯してくださり、あまつさえ「連帯保証人」にさえなってくださっている。イエスさまの十字架を想う時、これはグッときてしまいます。
あるいは、ルターは結婚・婚姻関係と表現しています。現代では夫婦であっても財布は別々、といった感覚が主流になりつつあるのかもしれませんが、ルターの時代はもちろんそうではなく、夫婦とは全てのものを共有する存在でした。ですから、新妻である私たちの一切の負債を新郎であるイエスさまが自分のものとして丸ごと抱えてくださり、新郎であるイエスさまの豊かな富・祝福が、新妻である私たちにそのまま与えられる。そう表現したのです。いずれにしましても、この連帯は決してギブアンドテイクなどではありません。利害が一致するからではないのです。一方的にイエスさまが損をするだけです。ご自分の命を落とすほどに。それでも、イエスさまは私たちと連帯してくださる。私たちと共有したいと願ってくださっている。たとえ、悔い改めの洗礼であったとしても。それは、どれほど大きな恵みでしょうか。
しかも、それだけではないのです。洗礼を受けられた後、天からこのような声が聞こえてきたからです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。イエスさまは悔い改めの洗礼を受けられた後でも、いいえ、悔い改めの洗礼を受けてくださったからこそ、やはり「神さまの愛する子」なのです。私たちにとって連帯はありがたい。私たちのために罪人にまで降ってきてくださったことには感謝に堪えません。しかし、それでも、その上でも、イエスさまは神さまの愛する子、圧倒的な神さまの力を持つひとり子でもあられるのです。ですから、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあるのです。イエスさまは神さまの霊を一身に受けられた力ある方でもあられる。
今日、旧約の日課としてイザヤ書42章が取り上げられていたのは、先ほどの天からの声、後半の「わたしの心に適う者」がこのイザヤ書42章からの引用だと考えられているからです。ちなみに、前半の「これはわたしの愛する子」は、詩編2編7節からの引用だと考えられています。ところで、このイザヤ書42章は、「主の僕の歌」と言われるものの一つで、有名なイザヤ書53章に代表されますように、イエスさまのことが語られていると受け止められてきました。その中に、こんな言葉があります。42章7節、「見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。神の子、主の僕であるイエスさまはそんな方でもある。
先ほど代表的と言いましたイザヤ書53章に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」と記されていますように、私たちの現実は「迷える羊」なのだと思うのです。神さまから迷い出てしまった憐れな羊。それが、見るべきものが見えずに、捕らわれて不自由とされ、闇の牢獄の中に住んでいる状態なのだとも思う。旧約聖書には、たびたび神さまから離れてしまった当時のイスラエルの民たちの姿が描かれていますが、そこでは不正が蔓延り、弱者が虐げられ、貧富の差が開き、無実の人の血が流されている現実がありました。
まさに、今の世界です。今の世界もまた、人々は神さまから離れてしまい、見るべきものが見えなくなり、自分の欲望に捕らわれ、気付かぬうちにも闇の牢獄の中に住んでしまっているような状態。格差が広がり、貧富の差が広がり、人としての尊厳が無視され、無実の人の血が多く流されている。
そんな世界に、私たちと連帯するために、連帯のみならず、力ある神の子として、私たちを正しき、あるべき道へ、姿へと引き戻すために、もう迷える羊とはしないために、イエスさまは生まれ、洗礼を受けられ、十字架に命を捨て、復活してくださった。それが、あの洗礼者ヨハネですら掴みきれなかった、困惑してしまったメシア、イエスさまの姿なのです。
私たちは幸いにして、そんなイエスさまと結び付けられるために洗礼の恵みに与ることができました。また、そんな恵みを一人でも多くの人々に味わって欲しくて、宣教の業に励んでいきます。この新たな一年、2023年も、そんな年でありたい、と思っています。