聖書箇所:マタイによる福音書4章12~23節
本日の福音書の日課には、イエスさまの宣教のはじまりについて記されていました。
イエスさまは、こう語っていかれました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。マルコによる福音書では、「神の国」となっています。どちらも同じ意味です。ご存知のように、ユダヤの人たちは、神さまの名前をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守っていましたから、「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っただけです。この「天の国」・「神の国」は、「国」とありますけれども、日本やアメリカ、中国など、どこかの特定の土地にある「国」を指すのではありません。むしろ、「神の支配」と言った方が良い、とも言われます。
もともとは、そういった意味です。よく「神の国運動」といった言い方がされますが、イエスさまがはじめられた、成された宣教とは、この神さまの国、神さまが支配される世界を宣べ伝えることにありました。これは、決して忘れてはならないことだと思います。ですから、後にイエスさまが成された具体的な事柄、例えば病を癒されたり、悪霊を追い出されたり、供食の奇跡をされたり、「山上の説教」に代表されるような教えを宣べられたりしたのは、この神の国・天の国のためだった訳です。
今日の日課の直後になりますが、4章23節以下に、このように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。
ご存知のように、イエスさまの周りには、いつもこれらの人たち、病人、怪我人、悪霊に苦しんでいた人、罪人と言われる人たち、社会的弱者たちが取り巻いていました。医学・医療技術も発達していない2000年も前のことです。江戸時代よりも平安時代よりも、もっともっと昔のことです。医者や薬があったって、治せない、治らない。怪我をしたら仕事もできなくなる。収入がなくなる。親、兄弟、いろんな人々に傷つけられて、精神的に参ってしまった人たちは、悪霊憑きなどと言われ、余計に居場所がなくなってしまったかもしれない。
とにかく、今よりもはるかに「生きにくい」時代、世界です。しかも、それらの不幸は、お前たちの罪のせいだ、神さまから見捨てられたのだ、罰を受けたのだ、と責められる始末。救いなどない。希望など見出せない。それが、彼らの現実だった。
今日の日課の冒頭で、イエスさまはイザヤ書の言葉の実現のために、故郷のナザレを離れ、カファルナウムの町に来て住まわれたことが記されていました。それは、16節、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に光が射し込んだ」と福音書記者マタイは理解したからです。そうです。ここにいる人々の現実は、「暗闇に住む民」「死の陰に住む者」だった。その人々のところに、光であるイエスさまが来てくださった。
少なくともマタイはそう理解した。そう確信した。だから、これはマタイしか記していませんが、イザヤ書8章から9章の言葉が実現したのだ、とわざわざ書いたのです。イエスさまは、そんな光なのです。暗闇を、死の陰を照らす光なのです。そして、それが、それこそが、神の国、神の支配。神さまからも見捨てられていたと思っていた。神さまから嫌われていると思って来た。神さまに罰せられていると思い込んで来た。そう思わせされてきた。だから、病にかかったんだと。病が治らないんだと。怪我をしてしまったんだと。精神を病んでしまったんだと。
不幸に見舞われているんだと。もう諦めるしかない。絶望するしかない。ただ、何も期待しないで生きるしかない。それが、それだけが、この過酷な世界、運命を生きる知恵。そう思ってきた。しかし、違っていた。そこにイエスさまが来られた。神さまは決してあなた方を嫌ってもいないし、見捨ててもおられないし、むしろ立ち返って、神さまの御業を見ることを、体験することを求めておられるのだ。神さまはあなた方の只中にいてくださる。これが、その証拠だ。ほら、ここに神さまの力があるだろ。
ここに、神さまのみ業があるだろ。これこそが、あなた方を神さまが救ってくださる何よりの証拠ではないか。愛して、気遣ってくださっている証拠ではないか。そう、神の国は近づいたのだ。だから、私が来た。私が来て、病を癒し、悪霊を追い出し、福音を伝えているのだ。それが、イエス・キリスト。人々を照らす光。
先ほどは冒頭で、イエスさまの宣教とは、この神の国・天の国の訪れを知らせることであり、非常に重要なことだ、と言いましたが、日本の教会はそのことをあまり意識してこなかったのではないか、と指摘しておられる方がいらっしゃいます。ここでも度々お名前を出させていただいている古屋安雄という長年ICU(国際基督教大学)の教授とICU教会の牧師をされてこられた方です。この古屋先生が、ご著書『神の国とキリスト教』の中で、日本の教会の歴史を振り返りながら、日本でこの「神の国」ということを真剣に考え取り組んだのは、賀川豊彦くらいではなかったか、と言っておられます。
この賀川豊彦氏について詳しくお話しする時間はありませんが、身近な例で言えば、「生活協同組合」を作った人です。古屋先生も指摘されていますように、日本ではいわゆる「教会派」と「社会派」とが̶̶最近はあまり聞かなくなりましたが、かつては、特に日本基督教団では大 変な騒動でした̶̶長年対立して来たことが、日本における宣教の不振につながっている のではないか、というのです。
「教会派」とは、極端な言い方をすれば、社会の現状に無関心とまでは言いませんが、とにかく教会形成を第一に考えて、どちらかというと内向きな姿勢になっていると言われています。逆に、「社会派」の方は、これも極端な言い方になりますが、とにかく社会変革を考える、優先する。一頃では、そういった「社会派」と言われる教会での説教では社会問題ばかりを取り扱って、キリストの「キ」の字もでなかったと聞き及んでいます。
古屋先生は、そのどちらも違う、欠けている、「神の国」的でない、というのです。イエスさまの宣教とは、まさに社会の只中に切り込んでいくものでした。社会の現実の中で、暗闇に、死の陰に座り込まざるを得ない人々の只中で福音を宣べ伝え、神さまの御業を実現することでした。ですから、時に、そんな社会を作り上げていた主流派の人たちとぶつかることにもなった訳です。そういう意味では、社会変革とも言えるのかもしれません。
しかし、何でもかんでも社会を変えることが目的ではなかった訳です。あくまでも「神の国」の実現、神さまのご支配の実現をこそイエスさまは願い、働かれたのです。そこも見失ってはならない。ですから、古屋先生も、「宣教」の大切さを指摘しておられます。しかし、ただ「教会」を作っていくためだけの宣教ではありません。イエスさまがなさったように、神の国を宣教していくのです。それが、それこそが、日本においてキリスト教の不振を打開する術ではないか、と訴えておられる訳です。私自身は、大いに刺激を受けた思いが致しました。
ともかく、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教されていきました。そして、このマタイ福音書は、その直後に、弟子の召命物語を記しています。当然、このイエスさまの宣教と弟子たちとが無縁ではないからでしょう。ここで今日考えたいことは、この漁師たちが、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちが、私たちが良く知っている使徒たちが、ごくごく普通の漁師だった、ということです。なんら特別な人ではなかった。イエスさまがまず宣教の業に加わらせるために弟子として選ばれたのは、普通の人です。
生涯を禁欲的に生き、厳格に自分を律し、正義のために殉じた、人としては罪から最も遠かったであろう洗礼者ヨハネではなかった。確かに、弟子の中にはパウロという特別な存在はいたと思いますが、その多くは普通の人だったと思います。私は、それが大切なのだと思うのです。
普通の人でなければ、宣教はできない。世の中の多くの人たちと同じように、親子関係に悩み、多くの傷を抱え、いつまでもトラウマに悩まされ、夫婦関係に悩み、子育てに悩み、子どもの行く末・進路に心傷め、職場に悩み、上司に不満を持ち、部下に腹を立て、物価高にオロオロし、老後の計画が狂ったと嘆き、政府の政策にいちゃもんをつける、そんなどこにでもいる普通の人、普通の私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまの宣教を共に担うものとして、選ばれるのです。ただ違っていることは、世の中の人よりも、まだ信仰の世界に入っていない人よりも、ほんのわずか先にイエスさまを知ったということ。
イエスさまに声をかけられ、イエスさまと一緒の生活がはじまった、ということ。そういう意味では、他の人たちと何ら変わらない普通の人間だけど、その普通さの中にイエスさまが入ってこられ、その普通の出来事の中にイエスさまの御業を経験してきた、体験してきた、それだけが唯一の違いです。私たちだって、イエスさまの弟子だって、「普通」に夫婦喧嘩だってする。親子の諍いだってある。口は災いの元とばかりに後悔する。いろんなことに落ち込んだり、悩んだりの毎日。他人がどう評価しようと、私たちなりの暗闇を、死の陰を経験するのです。
でも、そこで光を感じた。イエスさまが助けてくださった。信仰を持っていて良かった。そう言える、そう感じられる日々、出来事がある。それだけの違い。それが良いのです。その普通さこそが、このイエスさまの宣教に用いられるのだと思うのです。だからこそ、イエスさまは、ただの、普通の漁師たちを弟子として選ばれた。そうではないでしょうか。
私たちは今日、もう一度心新たにして、宣教の志を立てたいと思う。それは、あえて誤解を恐れずに言えば、教会の、私たちルーテル教会、ルーテルむさしの教会のためだけではないはずです。そうではなくて、神の国のために、神の国がもっともっと広く世界を、この日本を包み込むためです。そのために、私たちは宣教する。普通人の私たちが宣教するのですから、そんな大したことはできません。
大それたことなど、はなから求められてもいないのかもしれません。普通の私たちが、普通の生活の中で味わった神さまの恵み、イエスさまの力、そのありがたさを証しすればいい。イエスさまから学べば、もっと生き方が楽になるかもしれないし、小さな良いことを積み重ねることができるようになるかもしれないし、社会が少しずつでも御心に叶うように、弱き人たちも報われるような世界になっていけるのではないか、そう共感し合えればいい。それも、神の国の宣教。そうではないでしょうか。