説教 「天が開けて」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




三位一体後第19主日

「天が開けて」   石居正己

「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ1:35-51)

主イエスのみもとには、いろいろな弟子たちが呼び集められた。ヨハネ1:35以下には、最初の弟子たちが召された事情がしるされている。

バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレと、もうひとりの無名の弟子(おそらくはヨハネ)は、バプテスマのヨハネの証しによって、主に従っていった。この無名の弟子は、この福音書の記者とされているヨハネであったかと思われ、ここかしこに重要な役割を果す人物としてあらわれる。

アンデレに対しては、ある人は「わき役タレント」の名を与えている。兄弟ペテロを主のもとに導いたのをはじめ、同じように大切なわき役ぶりを発揮している弟子である。ペテロについてはいうまでもない。弟子たちの代表者としての役目を果し、のちには教会の柱と呼ばれた。「父を示して下さい」といって、主の嘆きといましめをみちびき出したピリポ、静かな瞑想型の人であったと思われるナタナエルらも、主のみもとにやってきた。

彼らは、それぞれの人生を歩んで、それぞれの性格を持っている人々であった。それが、いちように、主イエスのもとに導かれ、弟子として歩み始めた。ここに記された記事は、いわば彼らの「回心記」にほかならない。なぜ、どのようにして、彼らはキリストを信じる者となったのであろうかがしるされている。

ところが、他人の回心記というものは、わからないことが多い。「時は午後四時頃であった」というような簡単な、つまらない言葉にも、ご本人たちには胸に迫る感動がひめられていたに違いない。あの主に対面し、あの主と語り、その人格、その深さ大きさに圧倒されたあの時、あの部屋。あれはあの日の四時頃のことであったと。

けれども、そのようなわからなさをこえて、彼らに共通した、そしてわたしたちにもあてはまる、いくつかのことを、見出すことができる。

彼らは、同じように、主に目をとめられた。そっとついていったアンデレたちも、主にむきなおられて、たじろいでいる。ナタナエルは、「どうして、わたしたちをご存じなのですか」といぶかった。

彼らは、イエスはだれか、と求めていったのに、すでに主に知られているということに驚かされている。それによって、多勢のうしろから、私は直接関係ないけれどと思いながら、好奇心にかられ、仲間にさそわれてついていった者たちが、いきなり、主とむき合いにされた。主と、主によって知られている私とが、ここにある。

しかも、主はナタナエルに言われた。「これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。単に知られている、無関係でないというだけではない。彼らは「メシヤにいま出会った」のである。

そして主は、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、見るであろう」と言われた。天が開けるというのは神との密接な交わりが存していることのしるしである。イエスがバプテスマのヨハネのもとで、バプテスマを受けられたとき、「天が開けて、神の御霊がはとのように下った」(マタイ3:16)主ご自身、「私は門である」(ヨハネ10:9)といわれたが、この言いあらわしは、ヤコブが「天の門である」(創世28:17)といったベテルでの出来事を反映しているといってよい。

ヤコブは、荒野の中で、罪のうちにひとり、淋しく石を枕に眠ったとき、夢を見た。一つのはしごが地の上に立って、その頂は天に達し、神の使たちがその上を、上り下りしているのを見た。神は、その梯子の下で、ヤコブのそばに立って約束を与えられた。

主イエスは、同じように、孤独で罪の中に、ひとり旅する私に、天よりの道をひらき、天の門をひらいておかれる。開けば閉じる者のない門を私に向って開かれる。主が、従ってくる者を知っていられるのは、このように門を開く相手として、知っていて下さるということなのである。

ヤコブは、旅の果てに、ついに天にかよう道を見出したというのではない。ヤコブは、旅の初めに神から、天から自分の枕もとにかようはしごを示された。弟子たちは、弟子としての修業の果てに、天への道を指示されたのではない。弟子たちは、弟子としての歩み始めた当初に、神の御使いたちが上り下りするのを示された。主ご自身を門として、私たちに道をひらかれる。そして、主の弟子たちは、主に従う歩みを始めるのである。天は主において開かれている。いったいそれは何であろうか。

「見よ、神の小羊」という証しの指先に従って、救い主として、愛において私に関りたもうお方を見上げてゆかなければならない。自分の理解や確信以上の、たしかな救いが、私に向って、私のそばにいます。どんなに初めてでも、「きて見なさい」といってよい、力のある方がいてくださる。このお方への信頼を、正しく保ってゆき度いものである。

(1966年 三位一体後第19主日)