むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)
三位一体後14主日
「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい。」(ヨハネ5:1-15)
主イエスのもとには、いろいろな悩みや障害をもった人たちが、願い求めてきた。なんとか肉体的精神的な弱さを助けてもらいたいばかりに、主イエスをたよってきたのである。
ところが、ベテスダの池での出来事は違う。主のところへ来ることさえかなわぬ、心にも体にも力を失った者のもとへ、イエスご自身が近づいてゆかれる。主が通りかかられてさえ、彼は求めようとはしなかった。望みがなかったので、これ以上望むことをもやめた病人に、主は語りかけられた。
三十八年という長い年月、彼は病人たちの中にいた。おそらくは間歇泉で、時々温泉がふき出してくることのあったベテスダの池は、治病に効があるとされていた。人々は温泉のふき出すのを、天使がなすわざと考えていた。そして、水の動くとき、まっ先にはいる者は、病がいやされると信じられていた。
しかし、この病人は、もう人とあらそって水の動く時に、まっ先に入ろうとする力はなかった。もう自分をみず、神をみず、他人をみてかこつのみであった。当然人が助けてくれるはずという甘える心が、彼の中にはあった。他人への信頼心が、他人が助けてくれないという不満となり、すてばちな望みのない者としてしまったのである。
イエスは、この病人に、もう一度、根本的な問いを発せられた。「なおりたいのか」と。そして、彼は他の人々が助けてくれないことをのみ訴えたのである。
イエスは、その訴えに、直接応じられたのではない。かわいそうだから、私がそばにいて、今度は私がかかえて水の中にいれてあげよう、とはいわれなかった。
神のみ子として、この人自身に対したもう。左右を見廻して、人と比べてみたり、人の助けを期待する者としてでなく、彼が本当に自分自身として主のみ前に立つことを求められる。そして、直裁に命じられた。起きよ。自分の足で立て。私に向き合って立て。そして床をとり上げよ。
われわれは、つねに、いつの間にか、人間に対する依存心にむしばまれる。しかし、人間はだれでも、本当に頼られる者ではない。幸いであるといっても、健康であるといっても、人間の間では程度の差があるだけである。五十歩百歩の差にすぎない。今は幸いであるように見えても、健康そうに見えても、いつどうなるか、はかり知られない。すでに今でも、ほかの人が気づかないだけで、本人はいろいろの心労になやまされているのかもしれない。だれも、自分だけが特別にあわれで、助けのいる者だと甘えることはできない。
しかし、主イエスは、この病人の呟きをきかれる。そして、命じられる。ただ自分の力に目ざめ、他人の助けはあきらめよ、といわれるのではない。この病人は、もうひとりではない。彼にむき合って立っているお方がいます。
全く望みのない、望みを失った者に、主は望みを与えられる。ほかの、どこかに新しいこころみをなすように教えられるのではなく、病人の前に立って、みことばを与えられる。
病人は、主のみことばに従っていやされたのに、実は、このイエスがだれであるかさえ、知らなかった。のちに宮で主にもう一度出会って、知らされたのである。
それは、病人の心理や、こころの強さによってではなく、知識によってでなく。純粋に彼の前に立たれた主ご自身の力によって、彼がいやされたことを、示している。しかも、彼と同じように、われわれもまた盲目で、群衆しか目に入らず主を認めることをしない。
宮で出会われたイエスは、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかもしれないから」といわれた。もちろん、罪が彼の病気の直接の原因であったというのではない。しかし、主のいやしは、肉体のいやしのみではなく、魂のいやしをも含んでいる。水の動くのを待ちながら、ついにその力をうることのできなかったベテスダ池の模様は、律法の道をたどろうとした旧約の姿勢にも比えられる。そして、主のいやしは、律法的な神関係からのいやしでもある。
この主の前に、この主のことばを受けて、立ってゆくことができるように、望みの主を、いやしの主を見上げてゆかなければならない。
(1966年 三位一体後14主日)