むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)
1967年 降誕祭
「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。」(ルカ2:10)
福音書の降誕の記事は、預言と歴史としるしのない合わされたものである。それは、決して偶然のできごとではなくて、神の永遠の救いのみわざの成就である。主イエスに出会った弟子たちは、公生涯の主にお目にかかり、その教えを聞き、十字架の死と復活のできごとを目撃した人たちであった。しかし、彼らが主について語り始める時、自分たちが主に出会った時の体験から始めない。自分たちがどのように神について考えていたのかというような告白から始めない。彼らは、主イエスそのかたの始めから語り始める。しかもそれは遠く預言者によって、神ご自身がその熱心をもって成就することを約束された誕生であった。ヨハネによる福音書は、創造の始めにまでさかのぼる。
そのような神のみわざが、具体的な、血肉をそなえた幼な子イエスの誕生によって、すべての民のために起った。その誕生の日時とか年についてはあいまいな問題もないわけではない。それにもかかわらず、主イエスの誕生は歴史的な事件として起った。そしてこの誕生において、神の人々に対してなしたもう決定的なわざが起った。
したがって、それは歴史であり、そして見えない神のみ心を示すしるしでもあった。地上に起ったできごとでありながら、天的な問題を証ししている。人間的な感覚には、いちじるしい対照と感じられるようなことが生じた。すべての民の救主でいましながら、イエスの誕生は人々に知られず、貧しい姿でこられ、大きな喜びの音信であったのに、人々は恐れた。
み使いたちは、いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように、とうたった。
羊飼いたちは、その歌声をきくだけであったけれども、今日私たちは日曜の朝ごとに、同じグロリア・イン・エキセルシスをうたいかわす。
平和があるようにと、天使はうたったけれど、ヘロデの剣を待つ中に、主は地上の生をうけたもうた。み心にかなう人々に、と彼らは云う。しかし、神のみ心にかなう人々とは、だれを指しているのだろうか。ルカは、二度だけ「み心にかなう」という言葉をほかに用いている。一度は主ご自身がバプテスマを受けられた時、天よりの声として「あなたは、わたしの心にかなう者である」という言葉があったことがしるされている。知恵ある賢い者たちに対してではなく、神のみ旨が幼な子にあらわされたことは「まことにみこころにかなったことでした」(ルカ10:21)と云われている。み心にかなうということは、残念ながらただひとりの方、主ご自身にしかあてはまらない。しかし、資格がなくても、み心にかなう救いのみわざの中に、わたしたちも、そしてすべての者があずかることができる。そして神との平和を与えられる。
羊飼いたちは、ほんの少数の者たちにすぎなかった。しかし、この少数者に、「すべての民」への喜びの音信が示され、天軍の讃歌が聞こえた。彼らは、いわばすべての人々の代表者として登場してくる。しかし、羊飼いたちは自分で代表役を引きうけたのではない。自分たちで代表たることはできない。彼らは、だれからもそのような委託をうけていないし、そのようにふるまう地位も力も持ってはいない。それにもかかわらず、神はこの羊飼いたちをえらばれ、かれらにすべての人のための喜ばしい音信を托された。
人間の望みがここに結集して、実ったのでなく、神の望みがここに、すべての民に向って現われた。主の降誕のできごとは、人間的な希望のために用いられることでなく、人がひたすら聞き、受け、喜ぶべき音信としてくる。羊飼いたちは、自らの卑しさを忘れ、ふさわしくないことも忘れ、なぜ神がほかの人でない自分たちに、わざわざ降誕を告げられたかも疑わず、直ちに立って、すべての民への音信をたしかめに行き、人々に告げられたことを伝えた。
あの音信は、今私たちをも、あのすべての民の中に羊飼いと同様代表者とされる。私たちはまことに神のみ心が何であるかをわきまえ、実現し、伝え合ってゆかなければならない。
(1966年 全聖徒主日)