説教 「隣人となる」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




三位一体後第13主日

 

(ルカ10:29-37)

主イエスのもとにやってきた律法学者は、何をしたら永遠の生命を受けることができましょうかとたずねた。彼は実は、その答えを知っていた。申命記やレビ記にしるされていた言葉を、主イエスご自身が教えられたのと全く同じように(マタイ22:37以下)、語ることができた。

しかし、答えを知っているだけでは、生命を受けることはできない。それが自分自身の生活の中にどのように関わるかを考え、行ってゆかなければならない。聖書のみ言葉は、頭の中での理解にとどまったり、机上の答案であってはならない。具体的にそれによって生きられる力とならなければならない。

イエスは、そのような教えの例として、よきサマリヤ人のたとえを話された。

エルサレムからエリコへの途上、ある人が強盗におそわれて、半死半生の状態で道ばたに捨てられていた。通りかかった祭司もレビ人も、それと気づきはしたが、遠くを通りすぎていった。彼らは、この人がもはや死んでしまっていると思ったのかもしれない。厄介な事件にかかわり合いになりたくないと考えたのかもしれない。自分の旅を急いでいたのかもしれない。しかし、彼らは律法を熟知していた。ふだんならば、助けなければならないという答えをする人たちであっただろう。それでも、このような危急の時には、本能的に自分の身を守ることを第一に考えてしまったのかもしれない。

サマリヤ人は、普段はユダヤ人たちとの交わりをもっていなかった。仲のわるい間柄であった。しかし、彼はこの強盗におそわれた人を見ると、何のちゅうちょもなく、近づいていって、心づかいのあふれた世話をしてやった。

不信仰な、正しい信仰をもたないと思われる者の方が、ずっと律法の言葉に忠実に仕えていた。それはいつの時代にも、信仰者に対する警告である。知らずして、神に正しく仕えている人が、信仰者よりほかに、しかもしばしばいる。信仰が正しい生命力とならない時に、単なる知識的な悟りである時に、それはもはや信仰ではない。

よきサマリヤ人のたとえは、いろいろな人たちによって芸術作品の主題とされた。

昔の人々の中には、いわゆる聖画の中に、自分自身をモデルとして書きこんだ人が沢山いる。カスターニョという人は、イスカリオテのユダの顔を、自分の顔にしてえがいた。自分はまことに主を裏切るような者でしかない。自分自身の中にユダを認めますという信仰告白であったかもしれない。

よきサマリヤ人の画面の中で、私はどこにいるのであり、どの人物の顔に、わたしの顔をあてはめてゆくことができるのだろう。

律法学者は、当然のことのように「わたしの隣り人とはだれのことですか」と問うた。わたしちゃんと自立した、ほかの人たちに対する積極的な愛の行為を考えてゆくべき主体として見られている。しかし、律法は決してそのように、先の方を指さすばかりでない。わたしたち自身を弾該する。わたしの隣り人はだれかときく時に、自分自身はだれかという問いをも、同時になしてゆかなければならない。

そして、自分自身が、実はまず、あの半殺しになっている、助け手を待っている旅人であることに気づかなければならない。だれかが声をかけてくれるのを待っているのに、みじめにうちのめされて横たわっているのに、だれも近づいてはくれない。そういう状態に、わたしたち自身がいる。そして、そのわたしに近づいておいでになる、ゆきとどいた世話をして下さるよきサマリヤ人は、主ご自身でもある。

しかし、そのようにわたしに迫ってくるキリストの愛は、わたしを終着点にしているのではない。わたしたちをまきこんで、主の愛の力の中に仕えさせてゆく。わたしは、無傷で、金をもっていて、ほかのかわいそうな人たちをあわれむのでなくて、わたし自身をあわれんで下さった神の愛の働きに奉仕してゆくように押し出される。

その時、わたしたちは、わたしたちの周囲に、たくさんの見逃されている旅人たちがいることに、気がつかされる。いったいそれは、たくさんの困った人たち、窮乏の中にいる人たち、不幸な状況をせおった人たちがいるのは、だれの責任なのか、だれが助けてやる力をもっているのかでなく、何よりもまず、わたしたち自身が隣り人になってゆかなければならない。

マタイ25章に主が語られたたとえの中に、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」という言葉がある。空腹の人、かわいていた人、旅人、裸の人、病気の人、獄にいた人は、実はみな、主ご自身がその背後にいて、この人にしたことはわたしにしたことだと云われる。いいかえれば、半死半生の旅人がわたしで、よきサマリヤ人がキリストでありたもうばかりでなく、横たわっている旅人の顔にイエス・キリストをえがきこまなければならない。キリストがよきサマリヤ人にえがかれているものと、キリストこそが旅人としてえがかれているものと、その二枚の画が、よきサマリヤ人のたとえを正しくわたしたちに示す。片一方だけではない。

わたしたちは、「わたしの隣り人とはだれのことですか」という問いと共に「わたしはだれですか」とたずね、主イエスがどこに、どんな役割を果たしたもうかを見定めていかなくてはならない。そして本当に隣り人となるように、近づき、受けいれてゆく者でありたい。

(三位一体後第13主日)