説教 「来たるべき方」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




降臨後第3主日

(マタイ11:2-10)

すべての人々がことの決定に参加したいという望みと共に、だれかによって強く指導されたいという矛盾した二つの方向を、私たちは求めようとする、いわゆる大衆の参加と、群集の心理を表現してみせさらにそれを導いてくれる英雄の待望といってよいだろう。

旧約時代のイスラエルも、いろいろな型のメシヤ(救い主)待望をもっていた。メシヤは単に個人ではなくて、イスラエル全体、少なくとも神の召命を自覚した人々の集合体と考えられたり、逆に全く特別なひとりの人と考えられたりした。その救いの到来も破局的な世の終りと突然の世の改革が期待されていたり、漸進的な向上が予期されていたりした。

旧約聖書を基として展開されたユダヤの宗教的原理をあらわしている「タルムード」の中に、興味深い挿話がしるされている。 教師ヨシュア・ベン・レビが、予言者エリヤに向って「メシヤはいつ来るのですか」と尋ねた。エリヤは「行って御自身に聞きなさい」と答えた。いったいメシヤはどこにおられるのかという問いにエリヤは「町の入口のところに坐しておられる」という。メシヤは町の中に入ることを許されないらい病人たちの中に坐して、いやしておられるのだというのである。そこでヨシュアは、メシヤのもとに行き、「主よ、いつおいでになるのですか」と尋ねた。「きょう」というのがその答えであった。ヨシュアがエリヤのもとに帰ってくると、エリヤは「メシヤは何といわれたか」と聞いた。彼は「メシヤは私にうそを言われました。きょう来るとおっしゃったのですが、いらっしゃいませんでした」といった。エリヤはそれに対して「彼があなたに言ったことの本当の意味は、もしあなたがそのみ声を聞くならば、きょう来るであろうということなのだ」と答えたのである。

メシヤは、すでに町の入口に、病める者たちの真中におられた。しかし、すべての者に対する救いと審きの権威をもってやっておいでになる時が、待ちのぞまれていた。にもかかわらず、ヨシュアにとって、み声を聞く「きょう」そのようなメシヤの到来が約束されている。

バプテスマのヨハネは、主イエスを、この方こそ「待ち望まれた方」、救い主であると、人々に紹介したのである。しかし、マケラス城の地下に入牢したヨハネの耳にまで聞こえてきた主イエスの言行は、ヨハネは納得したようなメシヤの姿ではなかった。 そこでヨハネは、キリストご自身に疑問を投げかけた。自分の予想や期待と、イエス・キリストの言動が全く喰い違ったとき、それをだれかれに尋ねてみても、決して解決はされない。私は、自分流の救いやメシヤについての理念をつくり出し、それに主をあてはめてみようとだけしているのではないだろうか。ヨハネは、主ご自身に信頼しつつ、「きたるべきかたはあなたなのですか」と問うたのである。タルムードの挿話のように、これは主ご自身に聞いてゆかなくてはならない。

ヨハネは、「きたるべきかた」について聞いた。何が来たるべき状態であるのかなどと聞いていない。いかなる政治、いかなる文化、いかなる社会が待ち望まれるべきないかとも聞いてはいない。「だれが来るのか」否「あなたが彼ではないのですか」と聞くのである。

その問いは同時に、「だれが彼を迎えるのか」、「あなたはメシヤを迎えるのにふさわしいのか」という問いとしてはねかえってくる。信仰の目だけが、このかたがだれであるかを見通すのである。だから、イエスはヨハネの問いに間接的にしか答えられない。「私がそうだ」とどんなに大きい声で答えられたとしても、それだけで私たちに確信を与え、なっとくさせるのではない。私はどのように主に対していゆこうとするのか。私は何者なのか。そのことを聞かれながら、答えながら、救い主に対してゆかなくてはならない。信仰箇条を承認し、聖書の確言をうのみにすることが信仰ではない。

イエスは「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい」と、ヨハネの弟子たちに言われた。盲人が見え、足なえは歩き、らい病人がきよまるなどのことは、まことに見聞きされた事実であった。長い議論にまして、実際の出来事の証しは力をもつ。私たちの信仰も、そのようなものでありたい。

しかし、それは事実であっただけではない。これらはイザヤ書29:61など、あちこちに予言されているメシヤ到来のしるしなのである。単に不思議なこと、力あるわざであるというだけではない。昔から、「そのかた」のしるしであったのである。いわば、イエスは聖書の言葉によって、自分が「きたるべきもの」の姿にあてはまる者だということを明示された。

けれども、それがすべての事実ではなかったことを注意しなくてはならない。バプテスマのヨハネは、明らかのあてはまらない要素を感じたからこそ、疑惑を起したのである。主は、人々の期待にあてはまる方である。しかし、全部をあてはめてしまうわけにはゆかない。はみ出しているだいじな部分がある。主イエスは、権威あるメシヤであられただけでなく、人々を倒すためでなく、立てるための権威をもってこられた。罪をさばくためでなく、自ら人々の罪を負い、愛とゆるしを与える方でありたもうた。

私たちは、それぞれに救いについて、救い主について、自分流の考えを持っている。しかし主は、それからはみ出る面をもっておられる。そしてその重要さをはっきりと理解しながら、主ご自身に尋ねてゆかなくてはならない。主は一面的な型の中に閉じこめられたまわない。来りたもうた方であり、われらと共にすでにいます方であり、「きょう」私においでになる方である。そしてまたやがて来りたもう主でもある。

私たちに対して近づいて来てくださる方であり、しかも人々の中にかくされ、私たちの中に宿って変化させる力となりたもう方でもある。

このような型にはめこみ、とらえてしまうことにできない主のみわざであり、主のあり方である。しかし、一貫してあるものは、それが救い主イエス・キリストであり、主との関わりにおいて起こされるということである。この主に信頼し、聞いてゆくことは、私がどう生きるのかを決めてゆくことでもあるのである。

(降臨節第3主日)