説教 「世の命のために」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版

です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。

s.d.g.(大柴記)




受難節第4主日

(ヨハネ6:36-51)

ヨハネによる福音書6章には、主が5千人の群集を、5つのパンと2匹の魚で養われた出来事がしるされている。そしてそれに測して、その意味についての長い説明が語られている。その中には、いくつかのたいせつな問題が含まれている。

私たちの信仰は、いったい何を基としているのだろうか。この記事にあらわれるユダヤ人たちは、イエスご自身と出会い、話しをし、知っていた。主のみ手から分けられたパンで満腹することもできた。しかし、信じようとはしない。

私たちは、残念ながら主イエスに直接おめにかかることはできないし、主のみわざは遠い歴史のかすみに包まれている。それは、神話的な伝説とさえ思われる。主の力ある奇跡を信じることもむずかしい。どだい聖書に書かれているようなイエスが、実際におられたのかも知りはしない。

しかし、あのユダヤ人たちが信じることのできなかったということは、私たちが信じるということがどういうことであるかをもう一度深く思い返えされる。主の出来事をたしかに知り、確信したからといって、それは信仰ではない。正しい接近の仕方のままの関心が、ある程度自分自身の心からのものであるように感じられてくる。そして、知っても知ってもなお不安であるような、いわばもの知り病の中毒症状を呈するようになる。

心理学者は、何とか自分をたて直せという。無数にある雑誌やテレビ番組の中から、はっきり自分の興味と判断に合ったものだけを取り上げるように注意する。あるいは、自分が言っていることが、つめこまれた知識のうけ売りであるだけではなかったかどうか、いつも反すうしてみよと勧告する。

けれども、こうした問題は、テレビ時代、情報の時代といわれる今日だけのことではない。昔もやはり似たような問題が存在していた。キリスト・イエスについて、ユダヤ人たちは知っても知っても不安であった。「いつまで私たちを不安にしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」(ヨハネ10:24)と、じれて訴えている。

私たちがイエス・キリストに対するとき、普通のいみでの知識とは違ったことが問題とされる。それは、深く私たちの生存そのものの根から出てくる問いなのである。外面からの観象と知識ではなく、神と私、キリストと私の人格的な出会いである。

しかも、私たちの前に立ちたもう主は、私たちにとって、神の恵みを示すものであると共に、私たち自身をはっきりさせるものでもある。イエス・キリストにおいて自分の姿を見る。鏡を割ってその組成をしらべても、それがうつし出す私の顔には影響しないように、主イエスの歴史をその組成をしらべるだけでは、主に出会うとはいえない。主イエスは、神のみ旨をうつし出すと共に、私自身をうつし返す。

映し出すだけではない。私たちに新しい生命を与える。ありのままの姿を見せるだけでなく、神のみ旨の中にある本来の私の姿へ変える力を与える。

ヨハネ第6章は、直接聖餐式に関係しないというのが、宗教改革者たちの一致した考えであった。しかし、ここには飲みものとしてのキリストの血(6:54以下)についても語られており、明らかに聖餐の恵みが意味されているといってよい。キリストの肉、キリストの血を食することが言われている。単に主が5つのパンを分けられたということでなく、主ご自身の命が、私たちのために提供されたことが示されている。

私たちの罪の姿を示しつつ、それにも増して、主が赦しの主でありたもうことが教えられているのである。たしかに主は、空腹である人々をあわれみ、パンをわけ与えられた。しかし、それだけではなく、すべての人のいのちに最も必要な神のゆるしの愛を与えたもうたのである。

キリストご自身が、世の命のために与えられた。世の命、私たちの人生が気持よく生きられるためというのではない。ほんとうに、生甲斐のある人生を、価値ある一生を生きることがゆるされるというのである。目に見える生活だけではない。神のみ前に永遠に生きるいのちが与えられる。それが父なる神の欲したもうところである。そして主が与えたもうものなのである。信じる者には永遠の命がある。

(受難節第4主日)