(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)
むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、
日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。
ヨハネによる福音書 20:24-29
ディディモ
ディディモはギリシャ語で「ふたご」、トマスもヘブル語で「ふたご」である。「ディディモと呼ばれるトマス」は確かに直訳だが、「ディディモ(ふたご)という意味のトマス」と訳せよう。ポイントはこの男の名前をあげないで、「ふたご」という普通名詞を繰り返しているところにある。この記事を伝えた人にとっては、このことが関心事であり、しかもこのことを人に伝えたかったのである。この男、名は「イスカリオテの方でないユダ」(14:22)と推定される。この名を伝えるより、「ふたご」というところに力点を置いて、あの状況と重ね合わせて伝えよう、訴えようとしていることがあるのである。
ふたつ
「ふたご」は良く似ていて、しかも別である。同じようで、同じではない。ある意味で人間みながもつ状態を、より強い形で持ちうる。内に外に「引き裂かれた」状態である。アイデンティティの危機と言ってもよかろう。
トマスがそうであった。「私たちは主を見た」という仲間の喜びの報せを受けて、彼は引き裂かれている。信じて、共に喜びたかったであろう。しかし、彼にあっては、いまひとつの彼がもっと大きい。手と指による確認までは信じられない自分である。彼は信じたいが、信じられないのであって、彼はまさに内において「ふたご」、「引き裂かれた」状態である。
しかしこれゆえに、彼をめぐって、さらに彼の外でも「引き裂かれた」状態がある。主を見た仲間の喜びを共にすることのできない彼がいる以上、この群れはふたつである。情報を共にできず、心はひとつではありえない。しかも彼のこの思いは、仲間のほかの人にもうつっていく危険があった。人はいつも負の方向に引かれるものだからである。しかもこの状況が、戸を閉ざした状態の中でさらに八日間続いたのだから、事態はもっと深刻である。
トマスと、彼をめぐる仲間の状況はしかし、私たち人間の姿でもある。日常のことでも、私ひとりしばしば、心はふたつである。さらに私たち複数であれば、ひとつになれないばかりか、四分五裂でさえありうる。まして主の復活ということになれば、自分でも、仲間でも、「信じたい」、「信じられない」、「信じない」が交錯して、千々である。トマスとその仲間はあの時、私と私たちを代表している。
主によってひとつ
このトマスと弟子たちに、八日前と同じくイエスが現れる。八日間、内にも外にもふたつに引き裂かれ、割れていて、まさに平和がなかったこの群れに向かって「あなたがたに平和があるように」と言われる。平和とは、このように主によってもたらされ、恵みとして与えられるものにほかならない。今この群れは改めてひとつである。そればかりか、それはトマスのうちにも平和をもたらす。もう手も指も必要ではない。彼はただ「私の主よ、私の神よ」と言うのみである。それは私には、イエスの前にひざまずいていると見える。
人は傲然とひとり立つとき、引き裂かれている。むしろ、ひざまずいているとき―それは神の前であるときほんものである―人はほんとうにへりくだって「ひとつ」となり、全人の信頼に生きるのである。
(1996年 4月21日 復活後第2主日)