説教 「ほんとうの権威からの祝福」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




ルカによる福音書24:44-53

イエスの時代、人々がまだそれだけを「聖書」と呼んでいたものは、まだ、我々の呼ぶ旧約聖書にまで至っていなかった。「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44節)とイエスのお言葉にあるとおりである。旧約聖書が諸書の部分で確定して今のような構成になるのは、イエスの時代ののち、一世紀の終わりごろである。ただ、律法と預言書は、前期預言書としての歴史書を含めて、詩編と共に今のような形だった。イエスはこの中に、ご自身において実現、成就する、神の救いの働き、救いの歴史があることを見て取っておられたのである。それも当時のユダヤ教の正統的の立場からすれば、注目するに値しない二点においてである。すなわち、メシアの苦難と復活という二点である。イザヤ書53章とホセア書6章への注目である。

イエスがこのように、ご自身についての預言とその成就を語られたとおりに、ことは成った。そのことを復活の主からあらためて聞いた、その延長線上に、弟子たちの宣教があった。宣教はこのこと、イエスの苦難と復活とを宣べ伝える事であって、ほかの何を伝えることでもない。さらに宣教とは、信仰や教会に関わるすべてのことと同様に、主なる神がことを起こされ、働かれるものである。だから、弟子たちへのイエスの言葉はこのことを、「あなたがたは宣べ伝える」と言われずに、「宣べ伝えられる」と受け身の動詞形で告げている。弟子たちはこのことの証人であるに過ぎない。彼らの宣教はこのような証人としての働きにほかならないのである。

証人として托された働きに導かれる前に、弟子たちはなお暫くの時待たねばならない。都に留まらねばならないのである。神の霊による整えが、これこそ神の恵みの働きとして実現するまでのことである。それが実現するとき、「弟子たち」は「使徒たち」になる。イエスについて書かれた書(ルカ福音書)は、第二巻の「使徒言行録」として展開されることになるのである。

この待ちの時間を、主イエスは祝福で満たされる。この待ちの時間に主は弟子たちに課題や宿題をお与えにならない。欠乏に陥らないため、糧食で満たすのでもない。祝福を与えて待ちの時間を過ごす弟子たちをこれで満たしてくださる。己に属する者に、本当に必要なものを与えることができるということ、実はこれが「ほんとうの権威」ではないのか。この権威を、祝福においてとらええた使徒たちと教会とは、やがて四世紀、権威ある主の祝福をこのように表現することができたのである。

主があなたの前におられるように、あなたに正しい道を示すために。
主があなたの傍らにおられるように、あなたを胸に抱き、守るために。
主があなたの後ろにおられるように、あなたを悪人のたくらみから守るために。
主があなたの下におられるように、あなたが倒れるとき助け、わなから救うために。
主があなたの中におられるように、あなたが悲しむとき、慰めるために。
主があなたを囲んでおられるように、他の人々があなたを襲うとき、防ぐために。
主があなたの上におられるように、あなたを祝福するために。
いつくしみの神がこのようにあなたを祝福なさるように。

(1996年 5月19日 昇天主日)