説教 「主の名によって来られる方」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マルコによる福音書11:1-11

先月私はこの欄で「私の説教が変わりつつある」と書いた。それが届かないうちに、それを感じ取ったふたつの反応が私に届いていた。10月20日の札幌での説教の反応がひとつ、「先生は変わりました。武蔵野教会という群れの牧師をしているせいでしょう」とあった。その後、「毎月読ませていただいてます。説教、あのころと変わりましたね」とは、田園調布の会員の方の声である。正確には、私の説教は変わりつつあるのではなく、「変えられつつある」のである。変えてくださっているのは神、そして、武蔵野教会の会衆のみなさんである。教会暦の新しい一年と共に、聖日の日課のシリーズがマタイからマルコに変わって、あと数カ月、日課に導かれながら、私の説教は変えられていくだろう。

さて、マルコ福音書である。マタイやルカと違って、降誕のできごとも、いろいろなイエスの教えも伝えないマルコ福音書は、ひたすらガリラヤからエルサレムへ、そこでの十字架へと向かうイエスを示し続ける。その際、その語りを貫いているひとつの問いがある。教え、いやし、奇跡を行うこの「イエスは誰か」という問いである。その時々に答えを示しつつ、この問いを問い続けるのである。

待降節(アドベント)第一主日には、毎年それぞれの福音書によって、イエスのエルサレム入城の個所が読まれる。年毎に福音書を特定して読むという、今の聖日聖書日課の基本的な考え方からすれば、それぞれのキリスト証言のユニークさを通して、イエス・キリストの信仰的な理解を深めようというのだから、マルコを読む今年は、マルコの証言する、特徴或キリスト証言に触れなければならない。よく似ているマタイ、マルコ、ルカの三福音書ではあるが、似たような個所でも微妙な違いがあって、ユニークさが出ているからである。

エルサレム入城、マタイとルカは、イエスを王ととらえた。しかし、マルコには「王」というとらえ方はない。イエスをガリラヤの民衆の視座でとらえたと言われるせいだろうか。マルコ福音書で「王」が出てくるのは5回。1回はヘロデ王の場合だから、イエスについては15章に4回集中するだけである。それもイエス自身の発言や弟子たちの証言においてではない。イエスの告発や、それを受けたピラトの発言においてである。「イエスはだれか」という基本的な問いに導かれてキリスト証言を語り、書いた福音書記者マルコは、この問いに答えてイエスを王とすることを避けた、あるいは拒否したと思われる。

エルサレム入城のイエスにマルコは、マタイやルカ、さらにはこの場合ヨハネとも共通して、「主の名によって来られる方」というイエスのみを示している。「イエスは主」なのである。しかし、この主は威風堂々、駿馬にまたがる王ではない。欠けたところのない偉大な支配者ではない。「主がお入り用なのです(直訳すれば、「主は欠乏をもつ」となる」と言わせて、自ら欠乏、不足があることを明らかにする方である。それは神が人となって、人間のためにもたれる欠乏である。この方はこの欠乏を子ろばで満たされる。

「イエスはだれか」、マルコが問い続ける問いを一年追い続けたい。この問いにきょうの日課が示している「イエスは主」という答えに注目したい。まさに私たちのために欠乏を、悩みを追いたもう「主」なのである。この方こそ「私の主」であるという思いを深めたい。

(1996年12月 1日 待降節第1主日)