(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)
むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、
日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。
▼説教「一緒に食事」▲
マルコによる福音書 2:13-17 徳善 義和
イエスは悠々と時を過ごしていた。福音書が伝えるイエスは、その教えと働きの中でいつも悠揚迫らざる、ゆったりとした方である。論敵が現れても、慌てたり、身構えたりしない。突然ご自分の前に姿を現した人にでも、ひとりひとりに静かに対応しておられる。旅の途上でも、予定も忘れて、ひとりの人のいやしに全心を注がれる。しかし、考えてみると、イエスの時は限られていた。ほかの人たちはもちろん、弟子たちすら知らず、気付かなくても、イエスご自身だけは、ご自分の時が真に限られていることをご存じだった。
時が限られているとしたら、そしてそのことを知っていたら、私たちは何を考え、何をするだろうか。自分のために何をするだろうか。だれのために何をするだろうか。いずれにしても、限られた時を精一杯過ごそうとするに違いない。そういう人たちがをこの群れの中にもはっきりと、また隠れた形でいることを知って、牧師として私はそうしたひとりひとりを心に思って、ひたすら祈る。そして、私たち皆が、そうとは知らず、気付かず、心に留めずにいても、私たちのひとりひとりの時が限られていることもまた、厳粛な事実である。この限られた時の中で、たとえば私たちはだれと食事をしたいと思うだろうか。
イエスがレビの家で、弟子たちと一緒に、レビの仲間の「徴税人や罪人」と食事をなさったとき、ファリサイ派の律法学者は律法違反としてこれを咎めだてする。この事態をこうした観点からしか見ない。いやしくも人に教える教師であるイエスがこのような人々と食卓を共にするなどということは、あってはならないことなのである。イスラエルの、ユダヤ教の教えや常識に反することをイエスは公然とやってのけている、このこと自体が確かに注目に値する。
イエスがレビを始め、「徴税人や罪人」とみなされる人々と食卓を共にすること自体確かにファリサイ派の律法学者のように否定的にではなく、肯定的に見たとしても、これは格別のことなのである。しかし、この格別さにはさらに今一つの格別さが決定的に加わっていることに気付いて、今回この説教の準備をしながら、私は驚きに打たれているわけである。
この食事が、イエスには分かっている、限りある時のなかで起こっているという重なりである。イエスはこの限られた時の中で、あの時、この人々と食事を共にしようと、心を定めてあの場におられたということである。思い定めて、地上の生を生きるイエスの愛に、イエスの姿に打たれたい。
初代教会は「時の切迫の中で生きること」を、イエスの弟子たち、イエスを信じる者たちの生き方とした。その時人々の心に浮かんだのは、論敵が仕掛けるあの論争に臨んで、イエスご自身にははっきり分かっていた時の切迫の中で、思いを定めて、ひとときをあのように、恐らく外から見れば、悠々と、「徴税人や罪人」とファリサイ派などの人々からはレッテルを張られていた人たちと食事をしておられたイエスの姿であった。それは「時の切迫の中で」、他者と、それも他者のために、愛をもって徹底的に生きようとなさるイエスの姿にほかならない。
あの論争の中で、論争を超越して見えてくるイエスの生きる姿から、私たちひとりひとりへの、愛のメッセージ、また呼びかけを聞き取りたい。
(1997年 6月 8日 聖霊降臨後第3主日)