エゼキエル書 37:1-14 枯れた骨の復活
ヨハネによる福音書 15:1-17 イエスはまことのぶどうの木
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「先生、教会って天国に一番近い場所ですよね。教会に来ると私は妻に会えるような気がするんです」。これは私が牧師になって最初に赴任した広島県の福山教会で、ご夫人をガンのために天へと見送られた一人の男性が、「あなた、洗礼を受けて教会に行ってね」と言い残してゆかれたご夫人の遺言を忠実に守って受洗された時におっしゃった言葉です。その方もやがてご夫人の後を追うように御国へと召されてゆきました。今は天の御国で共に祝宴に与っておられることでしょう。この言葉は、その方のパートナーに対する深い思いと共に、忘れることのできない確かな「声」として私の心に刻まれています。
そうです、私は牧師となって28年目になりますが、心の中には多くの方々の声が刻まれているのです。『告白』を書いたアウグスティヌスによれば、「記憶」は私たちの「魂」の中に保たれるということですから、私たちの忘れることができない大切な「声」も私たちの「魂」の中に深く刻み込まれているのでしょう。
私は時折このように想像することがあります。私がもし天国に行くことを許されたら、そこで最初に神さまの声、イエスさまの声を聴いた時、どのような気持ちになるかということを。恐らくその声は初めて聴いた声のような気がしないのではないか。「ああ、この声は確かに前に聞いたことがある」と、とても懐かしい声として響くのではないかと想像します。それは、これまで私たちに真剣に関わってくれた者の「声」の奥底に、神さまの声が通奏低音のように重なって響いていたからではないかと思うのです。別の角度から見れば、神さまは私たちの声を用いてゆかれるのです。「真実の生は出会いである」とブーバーは言いましたが、その通り確かに「我と汝の出会いの延長線上に永遠の汝が垣間見える」のであろうと思うのです(『我と汝』)。
天国との絆〜洗礼と聖餐
本日は召天者記念主日。毎年11月の第一日曜日を私たちは召天者を覚えて礼拝を守っています。私たちと深い関わりのあった信仰の先輩たちのことを想起しつつ礼拝を守るのです。先週の10/29(火)にもこの場所では、10/24(木)に102歳でこの地上でのご生涯を終えて天へと帰って行かれた鈴木元子さんのご葬儀が行われました。鈴木元子さんは1955年の5月、44歳の時に神学校教会で青山四郎先生より洗礼を受けて以来、この教会の忠実なメンバーとして、キリスト者としてもその凛とした歩みを全うされたのです。ご遺族の上に天来のお慰めをお祈りいたします。
この武蔵野教会は、1925(大正14)年の10月に鷺宮のルーテル神学校の中に「神学校教会」として産声を上げました。そしてその33年後の1958(昭和33)年の4月、今から55年前に新しい会堂が献堂され、名前も「武蔵野教会」となって礼拝を守るようになったのです。私たちは本日、週報の別紙に多くの信仰の先輩たちのお名前を確認することができます。お一人おひとりのお名前の背後には、それぞれのかけがえのない人生の歩みがあり、ご家族があり、神の恵みを生き抜いた証しがあります。私たちもいつかはその召天者の列に加えられてゆくのです。
「教会」というところは実に不思議なところであります。死ねば終わりということではない。天に召された人たちは「天上の教会」に移されて、聖徒の交わりを継続していると私たちは信じています。礼拝堂の聖壇部分の中心には聖卓がありますが、あれは最後の晩餐で用いられた聖卓をかたどっています。主イエスがパンとブドウ酒をご自身の身体とその血として弟子たちに分かち合われたことを教会は二千年にわたって繰り返して出来事として守ってきました。それは終わりの日の祝宴の先取りです。聖餐式のたびに、天国の祝宴に私たちは目に見えるかたちで与っているのです。その祝宴の中心に置かれているのはキリストの食卓(聖卓)です。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って主はパンとブドウ酒を分かち合ってくださるのです。聖卓を中心として目に見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主だからです。その意味で確かに「教会は天国に一番近いところ」なのです。地上の教会と天上の教会とがこの食卓を通してつながっている。ですから讃美歌を歌いますと、今は天に移された方達の声が聞こえてくるようにも思われるのです。天上の教会と地上の教会がこの礼拝を通して、空間と時間を超えるようなかたちで、今ここで一緒に歌っているのです。
よみがえるいのち
本日の福音書の日課(ヨハネ福音書15章)には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)という主イエスの声が記されています。聖書
は「生ける声」の記録です。このようなキリストの声とつながっていることが重要なのです。幹から切り離されてしまった枝にはブドウは実りません。幹につながることでそこにはブドウの房が実ります。聖餐式を通して、主イエス・キリストの愛につながり続けるとき、大きな喜びの実が実ってゆくのです。
この「キリストとの絆」は、聖餐式において最も明らかであるように、「死」によっても断ち切られることのない「絆」です。なぜなら主は、死を克服してくださったからです。十字架の上に死なれた後、三日目に死人のうちからよみがえられた。そして生ける者と死せる者の両方の救い主として、天に昇り、今も父なる神の右に座しておられるのです。そのことを教会は二千年に亘って信じ、告白してきました。
そして旧約聖書の日課であるエゼキエル書の37章には、枯れ果てた骨が神の霊によってふたたびよみがえる場面が記されています。一度聴いたら忘れることができない場面です。神の霊(=息吹/風)が注がれるところに再びいのちが与えられてゆく。そこには「よみがえるいのち」があります。あのステンドグラスに描かれた羊飼い、主イエス・キリストの恵みの食卓に、私たちは今日も招かれています。このいのちの食卓こそ、よみがえりの力の源です。
アフリカの諺
今韓国釜山でWCC(世界教会協議会)の総会が開かれていますが、その元総幹事のサミュエル・コビア牧師がかつて紹介したアフリカの言葉があります。「もしあなたが速く歩きたいならば、ひとりで歩きなさい。けれども、もしあなたが遠くまで歩きたいならば、誰かと一緒に歩きなさい」。誰かと一緒に歩くことで、歩み自体は遅くなるかもしれないけれども、遠くまでたどり着くことができるのです。それは互いに助け合い支え合いながら歩むことを意味しています。召天者の方々のお名前は、キリストと共に歩んだ人生を表しています。そしてキリストにつながることの深い慰めと希望を分かち合いながら、私たちも新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりたいと思います。そこには神さまの祝福があります。ここにお集まりの方々お一人おひとりの上に、特に愛する方々を見送られたご遺族の上に、神さまの豊かなお恵みがありますよう祈ります。天の教会で再会することができる日まで私たちに与えられたこのいのちを大切にして、共に歩んでまいりましょう。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2013年11月3日 召天者記念主日聖餐礼拝説教)