ソノエビカワイソウ       賀来 周一

 鈴木元子姉妹が天に召されました。102才。この方を一言で表現するなら、才女という言葉がそのまま何の誇張もなく当てはまることに異を唱える人はいないでしょう。その才は、エッセイ、詩、短歌、翻訳、音楽、絵の世界にまで及びました。
この方の才の一端を表すエッセイを紹介しましょう。

1)ある時、夕食の材料を求めにトリ肉屋にトリを買いに行ったところ、トリ小屋にたった一羽だけ残ったトリがいて、トリ肉屋のおばさんが、ひょいと針金をトリの足に搦め、手許にたぐり寄せて、それを絞め、毛をむしって、はだかのトリを毛焼きし、「それでは産湯を使いましょうね」とおばさんはお湯の中にトリをつけた。それが新聞紙に包まれて、手渡されると先ほどまで生きていたトリがまだ温かかった。

2)店先で、おばさんがトリを絞めて、新聞紙に包んでくれるのを待つ間、おばさんにこんな話しをした。朝方買ってきたエビを氷冷蔵庫に入れ、夕方食べようと出したところまだ生きていた。そのまま揚げ物にしようと思ったが可哀想で、それができず、他の人に揚げて貰った。生きているものが死ぬのを見るにしのびなかったからだ。

3)そんな話しをして自分の気持ちを紛らわそうと思われたのでしょう。その話しを聞い
ていたトリ肉屋のおばさんは「ソノエビカワ
イソウ」と言ったのでした。エッセイは「ソノエビカワイソウ」いうおばさんの言葉で終わっています。しかもカタカナ書きで。

4)人は生き物を食べて自分の命を繋いでいる。注文したトリも先ほどまでは生きていた。エビという小さな生き物の命であっても、その生き物の命が断たれる瞬間を哀れと思い、エビが揚げ物となる断末魔の姿を見るに忍びないので人手に託した。優しい心情です。しかし、一片の同情心で命の断たれる瞬間から目を背けることは赦されよいことか。私が食べ、家族に食べさせるエビの死を人手にまかせるのは生き物であるエビに申し訳ないと知るべきではないか。

5)一片の同情心が如何に浅薄で自己中心的であったかを「ソノエビカワイソウ」という、おばさんの言葉で即座に知って、自分を悔いた瞬間をカタカナ書きにされたのでした。

6)わたしたちは、命あるものから命をもらって生きている事実から目を背けてはいけないのです。私たちが生きるために、トリも牛も豚も魚も死ななければなりません。神は創造の秩序の中に、これを食物連鎖として組み込まれました。考えてみれば、動物のみならず植物であろうと生き物です。だからこそ、自然が育んだ食べ物が持つ命への畏敬を損なうべきではないとの思いを深く込めた一編がここにありました。
 
(随筆集「続・葦のしずく」から)