「居場所と居心地」 石田 順朗

 本稿を書き出したのは、今年の受難週、ちょうど半年前、常識を覆す甚大な土石流災害を被った伊豆大島、廃校となった小学校校庭の仮設住宅でため息を漏らす一女性の声をテレビで聞いた時と重なった。見えない未来に不安を抱える被災者たちは多い。46戸建設された仮設住宅の入居期限は2年で、再来年1月には自宅の再建や公営住宅の入居を決断しなければならないという。

「仮設住宅」、「仮住まい」。復興庁によると、今なお全国には約26万7千人の避難者がいて、福島県だけでも約8万5千人。仮設住宅や見なし仮設または自力再建などで落ち着いた生活を送る人たちもいるが、幾度も避難先を変えるなど多くの避難者の生活は振り回されている。

時を同じくして、大震災で児童・教職員計84人が死亡、行方不明となった石巻市立大川小の卒業生5人が、被災した旧校舎を「震災遺構」として保存して貰おうと署名活動に取り組む考えを表明しているのに涙ぐんだ。「大川小は心の居場所」、「そのままの姿で残してほしい」と訴えていたのだ。

「居場所」といえば、思いつくことが二つある。十年前の「狂牛病騒動」の末期に聞いた警句「安全でも安心できない」から連想される「安全と安心とは健全な居場所」の名言。これが第一で、今なお極めてリアルな定義だ。もう一つは、19世紀初頭、ドイツの宗教史学派を代表する旧約学者 H・グンケルが言い出した神学用語、Sits im Leben、邦訳では「生活の座」。その英訳、situation in lifeが告げるように、ただ場所的な事柄だけではなく、「居心地」を含む「生活全般への視座」という含蓄に富む表現である。

わたしは、先の著作で「説教と礼典執行は、地域社会に居場所を定めた『教会的行為』」と書いた(『神の元気––』p. 63)。むさしの教会は、わたしたちの「心の居場所」である。何と幸いで素晴らしいことか!

今年、3月2日の変容主日聖餐礼拝で、『教会讃美歌』148番を歌った時のことを思い起こす、「2.ここにいるは いとも楽し、モーセとエリヤも み傍に立つ。3.いまぞ神のみ国を見る、われらの住家をここに定め。–」でも、5節を歌ったことが忘れられない、「されどわれら ここをはなれ、悩めるこの世に くだりてゆかん。–」ついで、「派遣の祝福」をこのからだ一杯に戴いた。

 宣教 90年を超えて、わがむさしの教会の目指すかたちを求めて「第2次宣教ビジョン」作業が始まった–まさしくこの「視座」からではないだろうか。

むさしの教会だより 5月号(499号)より