「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)
最近、朝のテレビ小説『花子とアン』で「根拠のない自信」という言葉を耳にしていくつかのことを思い出した。四年ほど前に東洋英和女学院(花子の母校)でのクリスマス礼拝に招かれた時のこと。保護者会の世話役であるお母さんから「子供たちはこの学校が大好きなのです。この学校は子供たちの中に根拠のない自信を育ててくれました」という言葉を伺った。そういえば三鷹のルーテル神大時代にも東洋英和出身の学生がいて、行動派の彼女がいつも「自分には根拠のない自信があるのよ」と語っていたっけ。東洋英和に限らず、学校や家庭というものは子供たちの中に「根拠のない自信」を育むという使命を持つものなのであろう。
「根拠のない自信」を持つ者には「迷い」がない。いや、たとえ「迷い」があったとしても、その「根拠のない自信」のゆえに周囲を巻き込みながらも逆境を乗り越えてゆくことができるようだ。「自尊感情」がその人の「レジリエンス(回復力/復元力)」を支えているのだ。いかにも逆境に強かった故小泉潤牧師の生き方をも思い起こす。ふだんの日常生活ではあまり見えてこないが、いざという時には私たちが持つ「根拠のない自信」が大きく事を左右するのであろう。
2011年の4月、大震災の後というタイミングになったが、『こどものまなざし』で著名なクリスチャン児童精神科医の佐々木正美先生を私たちの教会にお招きしたことがあった。先生はそこで子供たちの内に「根拠のない自信」を育むことの大切さを語られた。そのために「子供たちに溢れるほどの愛情を注いで、大いに甘やかせてあげて欲しい」と言われたのである。人を愛するためにはまず自分が人に愛されるという体験が必要となり、愛されることを通して子供たちには「根拠のない自信」が育まれてゆくのだという。先生は続けられた。「私たちは普通『根拠のある自信』を持っています。しかし『根拠のある自信』はその根拠が揺れ動くとガラガラと崩れてしまう。けれども『根拠のない自信』は根拠がないがゆえに決して揺れ動くことがないのです」。その実践に裏打ちされた温かい言葉は今でも私の中で一つの確かな声として響いている。
「根拠のない自信」という逆説的な言い方であるが、考えてみればそこにはやはり「根拠」があると私は思う。そもそも「自信」とは「自分に対する信頼」を意味するが、その「自信」の「根拠」が自分の「内」ではなく「外」にあって、それが「外」から「私」を支えているということなのであろう。そこでの「自信」とは「自分を支えるものに対する信頼」という意味となる。自らの外に自分を支える「確固とした足場・基盤」を持つということ。万物は揺らぐとも主の言は永久に立つ。自己を支えるそのような足場を持つことができる者は幸いである。
キリスト教作家の椎名麟三は受洗の後に、「ああ、これでオレは安心して、ジタバタして死んでゆける」と言ったという。洗礼において主が私を捉えてくださった。罪と死との格闘の中で自分はどこまでもジタバタせざるをえない弱い存在。しかしそのような自分をキリストが捉えて離さないがゆえに、安心してもがいてよいという主の愛に対する絶対的な信頼がある。「我ここに立つ」と言ったルターも「キリストの現臨(リアルプレゼンス)」という基盤の上に立ち続けた。その基盤を「インマヌエルの原事実」(滝沢克己)と呼び、「神の〈まこと(ピスティス)〉」(小川修)と看破した先人たちもいる。
「たとい明日世界が滅びようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」というルター的な言葉も、また次のように語ることができたパウロの信仰も、確かにそのような「根拠のない自信」に裏打ちされていたと思うのは私だけではあるまい。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)。
神の〈まこと(ピスティス)〉が私たちの信仰(ピスティス)を支えている。私たちに贈り与えられている「根拠のない自信」を共に喜び祝いたいと思う。
むさしの・スオミ教会牧師 大柴 譲治
〜るうてる7月号巻頭言〜