サンパウロだより -ブラジルあんなひと・こんなひと-    徳弘 浩隆

サンパウロ教会の元気そうな活動報告が続いてきたと思いますので、今回から人にスポットを当ててみようかなと思います。遠いブラジルの空の下を想像しながら、お読みくださればと思います。

 

素朴な農家の素朴な信仰の歩み

二か月に一度、アルゼンチンとの国境のブラジルの一番南の州、Rio Grande do Sul州(ヒオ・グランジ・ド・スゥ)に日本語礼拝の出張に出かけています。その名は「南の大きな川」という意味です。日系の新聞では「南大河州」と略されたりもします。ここは南で寒い地域(南半球だから)。世界各地からブラジルに来た移民たちは、北半球の自分たちの故郷と似た気候や地形のところに定着していて、ここにはヨーロッパの北の寒いところから、つまりドイツ人の移民が多いのです。ということで、我らがブラジルのルーテル教会(IECLB)もたくさんあり、その本部がある所でもあります。

ドイツ人たちが入植して作り上げた移住地が多く、いまでもその風景は、まるで(TVで見たような想像でもありますが)ドイツの片田舎の農村地帯のような田園風景。バス停で降りると、車ではなくて馬車で迎えに来ている人もいるくらいのところです。

SanPaulo-1

 

金曜の朝早い飛行機を予約してサンパウロを発ち、昼前に州都のポルトアレグレに到着します。Porto Alegreとは「喜びの港」という意味。大きな川があり、港があり栄えた町です。早朝の飛行機は安いチケットが買えるので、行きは飛行機で行っています。ちなみに帰りの日曜夜や月曜朝は高いチケットしか入手しにくいので、最近はもっぱら節約のため長距離バスで19時間の旅です。

さて、そのポルトアレグレからバスでまた2時間半ほど揺られると、Itati(イタチ)という市があります。ブラジル原住民族の言葉の名前です。そこは山と川と畑の田園風景。5年前に初めて訪ねた時の印象は、「これは妻の故郷の島根県の山の中と同じ風景! なんだか懐かしいなぁ~」という感じでした。訪問先はドイツ人コロニアの中に身を寄せ合って住んでいるような日本人集落。といっても川沿いの大きな土地をそれぞれ購入してトマト作りで成功し、その後花の栽培で生計を立ててきた日系人の農家の方々。長老格は麻生さんという福岡県出身の90歳と80代のご夫妻。私の故郷の北九州市のすぐそばの生まれの方で、地元の話も弾みます。

昔からクリスチャンで、その街の日本人グループの世話もしながら過ごしていて、現地のドイツ系ルーテル教会に通うようになられ、2代目宣教師の塩原久先生の時に交流が始まり、現地教会で40名の集団洗礼式をされたとか。

麻生さんも、土地を探しながらこの街に来たとき、日本の田舎の風景とそっくりだったので、すぐに「ここだ」と入植を決めたとの事。苦労の末に家業は息子さんに任せて、ようやく定年して、船を買って趣味の釣り三昧。魚を手際よくさばいて、夕食には刺身や、アラのお吸い物を出してくれます。定年後の船も釣りも魚料理も私の父と同じで、故郷の話も弾みます。

しかし、最近目も悪くなり、車の免許更新もあきらめて、夜の集会所までの運転は私がするようになりました。集会所は昔花の出荷作業のためにみんなで建てた家。夜道は真っ暗で、見上げると満天の星の中に南十字星が輝いています。集会所ではそれぞれ農作業を終えた老夫婦が15人くらい集まってくださり、老眼鏡と虫眼鏡で聖書を一緒に読み、讃美歌を歌います。礼拝後は、手作りのお饅頭やブラジルのお菓子、そしてお茶をいただき、話に花が咲きます。

SanPaulo-2うれしいことに、最近参加者のお孫さんの小学生の女の子が礼拝に出てくれます。「こんどクルト(礼拝)はいつあるの?」と聞いてくれて、バス停までおじいちゃんと一緒に迎えに来てくれるそうです。その夜は麻生さんのお宅の、床の間もある和室に布団を敷いてもらって泊まりますが、翌朝、その会員さんとお孫さんがまた車で迎えに来てくれ、バス停まで送ってくれます。

街に2時間半かけて戻り、午後に2時間ほどかけてIvotiというブドウ畑をしてる日本人の街へ。ここもドイツ人の街に日本人たちが住んでいる所。ドイツ人は本当に自分たちによくしてくれた、と言われます。こちらは少し素敵な田園風景、清里を思い出します。夜には、ブドウの箱詰めをする家の中の作業場で、10人くらいで礼拝をします。

翌朝、ポルトアレグレに戻り、15人くらいの日本人の方々と礼拝をします。礼拝後、お茶をいただいて、ひとしきりおしゃべりをして、礼拝の後では麻生さんの奥様を訪問します。今年2月の真夏の暑い日に脳溢血で倒れて、いま町に住む娘さんのところで見てもらいながらリハビリ中なのです。そこでも、双子の10歳くらいの女の子が待っていてくれます。麻生さんのお孫さんたちです。私たちが行くと、ベッドの下のハンドルをくるくる回して起こしてくれ、タンスの奥から大きな紙を丸めたものを探し出してくれて、おばあちゃんの前で広げてくれます。

SanPaulo-4叔母さんが大きな字でカレンダーの裏側に書いてくれた讃美歌です。わたしはスマホに入れた讃美歌を無線でつなぐ小さなスピーカーを使って演奏し、みんなで大きな声で歌います。二人の可愛いお孫さんも、日本語は多少話せるだけですが、かいがいしくおばあちゃんのお世話をして手伝ってくれます。最後に手をつないで祈ります。そして、この双子の女の子たちとブラジル式にほっぺにキスをしてお別れします。

 

信仰そして希望、そして将来…

東京のようにビルばかり、慢性的渋滞、殺人的満員電車のサンパウロを離れて、こうして二か月に一度ブラジルの田舎の農村の日本人の方々を訪ねることは、私にもとても大切な時間です。二世になるお子さんたちは、日本へデカセギに出かけたりもして、教会にはあまりつながっていません。日系社会はそこで少し断絶があるとも言われます。しかし、戦後移民一世の方々の、苦労しながらの信仰と共に来た生活を聞き、再会した時とお別れするときにブラジル式にしっかりとする握手では、ごつごつとした手が、その苦労を物語っています。麻生さんはブラジルでお子さんを一人水難事故で亡くしていて今でも悔いています。生きていれば私と同年代です。

しかし、お孫さんたちが私たちと会うのを楽しみにしてくれて、いろいろ話したり見せてくれたりするのを見ると、お花やブドウとは違う、もう一つの信仰の実りを予感するようになり、うれしく、楽しみにもなりました。ここに確かに神様がいらして、信仰とともに希望もあると、感じさせられるのです。

ブラジルにはこんな日系人の街がまだまだあります。出張の帰りに時には自費で遠回りし他の街を、そしてそこの日本人を訪ねたりもしています。SanPaulo-3

サンパウロの二つの日系ルーテル教会も成長し、合同もしましたので、力を合わせて来年自給した後は、他の街に開拓伝道ができればと祈らされます。

そして、「もうひと頑張りして欲しい」とこちらの皆に願われています。JELCとIECLBの現行規則の宣教協約では教会双方と本人が合意すればあと一期7年の延長が出来るとのことで、教会員とIECLBは延長をJELCに申請しています。私達は祈った末、この広い大地でもっと走り回って宣教師したいと思い、それを願っています。

延長できるか、後任が送られるか、あとのことは神様にお任せしています。信仰を守り、培ってきた人々の信仰を広め、新しい世代の信仰も、確実な実りになればと、それを願い祈っているのです。皆さまも、お祈りください。いつもありがとうございます。