【説教・音声版】2021年5月23日(日) 10:30 説教 「 聖霊と共に働く 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨祭礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書15章26~27、16章4b~15節

本日は、ペンテコステ・聖霊降臨祭の礼拝です。ご存知のように、この日は「教会の誕生日」とも言われ、クリスマス、イースターと並んで教会の三大祝祭の一つとして大切に祝われてきました。私たちの教会でも例年聖餐式を行ない大切にしてきた訳ですが、このコロナ禍で昨年に引き続き、今年も残念ながら皆で集って祝うことはできませんでした。

先ほどは、この日は「教会の誕生日」だと言いましたが、それは、本日の第一の朗読(使徒言行録2章1節以下)にありますように、聖霊降臨の出来事と教会の営みとが深く関わっているからです。確かに、それ以前にも弟子たちの集まりはありました。そういう意味では、教会の原型はすでにそこにあったのかも知れません。しかし、約束の通り、聖霊が降ってきてくださり、弟子たちの上に、私たちの上に留まってくださったことにより、大胆にイエス・キリストを証する宣教が始まっていったのです。これが、教会の姿。だからこその、教会の誕生日。

聖霊降臨を描いた15世紀の写本


私たちは…、今日のことだけではありません、このコロナ禍で昨年より何度も集うことができなくなりました。これは、教会の本質に関わる危機的なことに違いありません。教会とは、本来「集う」ところだからです。しかし、聖霊は教会堂だけに留まられる方でないことも事実です。ご聖霊は、教会に集う私たちの只中にいてくださる方であると同時に、今、一緒に集うことができない皆さんお一人お一人の只中にもいてくださるからです。聖霊降臨の出来事とは、そういった面もあるのだと思うのです。

たとえコロナの危機が去っても、教会に集うことのできなくなる方は確実に増えていくでしょう。社会全体も含めた高齢化といった現実も待ったなし、だからです。だからといって、そんな方々が教会でなくなるということではありません。集うことだけが教会員同士の繋がりではないし、何よりもご聖霊がそのお一人お一人の只中にいてくださる。真理の霊が、弁護者が、慰め主が、私たちの主イエス・キリストを証しし続けてくださる神の霊が、私たちの只中に、熱心か不熱心か、教会生活をちゃんとおくれているかおくれていないか、そんな自己分析に関わらず、約束として、ちゃんと「ここ」にいてくださるからです。

私たちはおそらく大なり小なり、誰もが信仰の危機を経験するでしょう。ある者は、短期間で済んだのかも知れませんし、ある者は長期間続いたのかも知れません。また、現在進行形の方も、ひょっとしたらおられるのかも知れない。「信じられない」「確信が持てない」「救われている自覚がない」「平安がない」…、信仰している意味を見いだせなくなってしまう時がある。そして、なぜ自分だけが…、そう思い込んでしまうことも、ある。そんな時、もし身近にイエスさまの存在を感じられたのなら、と思ったことはないでしょうか。

何度かお話ししたことがありますので、ご存知の方も多いと思いますが、私自身は15(歳)の時に初めて教会に行った訳ですが、すぐにイエスさまに惹かれるようになりました。そして、イエスさまの弟子になりたいとの願いを持ち、あの弟子たちが羨ましくもあり、イエスさまを身近に感じたい、と思うようになりました。そうすれば、もっと信仰が深められ、あらゆる疑い、不信仰から解放されるのではないか、と考えたからです。身近にあった信仰書を読み漁りました。映画やアニメも見ました。17、8(歳)の時に、遠藤周作が描くイエス・キリストに(無力で愚直な愛に溢れる)ハマった時期もありました。しかし、正直、不安な心が解消されることはありませんでした。

あの弟子たちのように、身近にイエスさまの存在を感じることができれば救われるのか。確かに、そういった面も否定できないと思いますが、しかし、何よりもイエスさまはこう語られるのです。16章7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」。もうすぐ、ご自分はこの世からいなくなると弟子たちに告げられると、弟子たちは途端に不安になり、悲しみに押しつぶされそうになります。その気持ちは、私たちにも良くわかる。しかし、そんな弟子たちに、イエスさまはご自分がこの世からいなくなることが弟子たちにとってはかえって良いことだ、と告げられるのです。なぜならば、そうでないと弁護者…、これはご聖霊のことを表す訳ですが、ご聖霊が来ることができないからだ、と言われる。

あたかも、ご自身が身近にいるよりも、ご聖霊が来ることの方が良いことであるかのように。考えてみれば、いつもイエスさまと一緒にいた弟子たちこそ、イエスさまの真意を、その真のお姿を理解できないでいたのです。イエスさまの十字架の場面では逃げてしまい、復活も信じられずに恐れて閉じこもることしかできなかった。そうです。12節に記されているように、弟子たちにはまだ「理解できない」のです。自分の力、知恵、理解力では。だから、真理を伝える、つまり、イエスさまの本当の姿を、真意を伝えてくださるご聖霊の存在が不可欠だと言うのです。

では、そのご聖霊とは、一体どんな方か。これが、なかなか難しい。ご聖霊のことが良く分からない、と言われる所以でしょう。ヘブライ語もギリシア語も「霊」を表す言葉は、「風」を意味するものです。空気の流れ、です。そこから「息」をも意味するようになりました。つまり、実態はなかなか掴めないが、確かにその存在の力を感じる、ということです。

エル・グレコ(1541-1641)「聖霊降臨」The Pentecost 1600年頃 プラド美術館


皆さんは、風力発電用の風車を間近にご覧になられたことがあるでしょうか。私は静岡時代に、駿河湾に面した海岸に試験用に一機だけ立っていた「風電君」という風車がお気に入りの散歩コースでした。駐車場に車を止めて、海岸沿いの遊歩道を歩くのですが、そこから大体片道2キロほどのところに、風電君が立っていました。駿河湾を望む本当に素晴らしい景色で、風電君を目指して、そこで折り返して帰るのが、楽しみで仕方がなかった。特に、仕事帰りに、夕焼けに染まった風電君を見にいくのがたまりませんでした。その風電君、結構大きいのです。高さ約65メートル、羽が三枚ついているのですが、その一枚の大きさは約35メートルもあります。まさに、圧巻です。その巨大な風車がブンブンと音を立てて回る。散歩のスタート地点では無風のように感じても、風電君の羽が回っていると、「あ~、風が吹いているんだな」と思ったものです。風、霊の実態はとらえられなくても、力がある。とてつもない力が。

その聖霊の力、働きとして代表的なものが、「誤りを明らかにすることだ」と言われています。「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。もう時間もありませんので、今日は、このうちの「罪」の誤り、だけを取り上げたいと思いますが、このように記されています。「罪についてとは、彼らはわたしを信じないこと」。キリスト教でなくとも、罪は罪として社会・世界は知っているはずです。ですから、法律があり、違反者には裁きが執行される。それだけでなく、倫理観だってある。法律に違反していなくても、倫理の問題として罪意識も生まれる訳です。しかし、それは誤りだという。いいえ、それら全部を誤りだというのは、言い過ぎだと思いますが、そこには現れてこない最も大きな罪がある、と言うのです。それが、イエス・キリストを信じないことだ、と。

多くのキリスト者が良心の呵責に悩みます。自分の不信仰ぶりに打ちひしがれます。それが、先ほど言った信仰の危機にもつながる。「確信が持てない」「救われている自覚がない」「イエス・キリストを信じる、信じ切ることができない」と。そして、それは自分の不信仰の結果だと、また自分自身を責めることにもなる。しかし、今日の御言葉は、それは誤りだ、と言うのです。聖霊の働きなくば、何人たりとも、イエスさまを信じないことこそが罪なのだ、といった理解、自覚には至らないのだ、という。つまり、皆さんが不信仰の結果だと思っている事柄は、実は、聖霊が誤りを明らかにされた、正された結果なのです。聖霊が約束の通りに、皆さんの只中におられるからこそ、不信仰の罪に気付かされるのです。

もちろん、聖霊の働きはそれで終わらない。罪の理解の誤りの指摘だけに終わらない。イエス・キリストの真実を、その救いを明らかにされる。そういう意味では、私たちは聖霊の働きの全部を素直に受け取っているとは、まだ言えないのかも知れません。しかし、それでも、聖霊の働きは、皆さんの只中に確かにあるのです。聖霊の力を確かに受けている。動かなかった私たちの心の歯車が回り始めているからです。不信仰を罪だと嘆くのも、その一つです。

次回、今日のところももう少し触れていきたいと思いますが、私たちの只中に聖霊が来てくださっている事実に、心から感謝していきたいと思います。