【 説教・音声版】2021年11月14日(日)10:30 聖霊降臨後第25主日 子ども祝福式礼拝  説教 「忘れた頃にやってくる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二十五主日(祝福式)

聖書箇所:マルコによる福音書13章1~8節

今年も終わりに近づいてまいりました。次週はいよいよ教会の暦としては最後の主日、最終主日となります。ですので、テキストも「終末」(世界の終わり)について取り上げられているものでした。
振り返るまでもなく、今年も昨年に続いてコロナ一色の一年であったと思います。新型コロナに翻弄される日々でした。もちろん、未曾有の出来事です。多くの「痛み」が生まれました。しかし、ある方の言葉が耳に残っています。「このコロナ禍に全然危機感を感じない。戦争はこんなものの比ではなかった」と。戦争体験者の言葉です。実は、私自身も同様の思いを抱いてきました。

もちろん、これだけ日本国内だけでなく世界中の人々を苦しめてきたわけですから、軽んじるつもりはさらさらありません。コロナなど平気だ、何の問題もない、などと言うつもりはない。むしろ、このコロナ禍で改めて浮き彫りになった様々な問題、特に弱者に優しい社会への変革を真剣に求めなければならないとも思っています。しかし同時に、このコロナ禍だけなのだろうか、との戸惑いは常にありました。

私自身、牧師の端くれとして、興味がありまして、あのナチス・ドイツの迫害下にあった「告白教会」について、私なりに少し学んだことがありましたが、本当に過酷なものでした。戦争を知らない者が語る甘さがあるということは重々承知していますが、本来的な姿ではありえない中での「信仰の戦い」というものを垣間見させていただいたように思います。もちろん、ウィルスと戦争とを同列に語ることはできません。

しかし、個々人の歩みにおいても、人類史においても、そういった災い、不幸というものは常に起こり得るということを知ってきたはずです。そして、それらに対して、どう対抗していくのか、対処していくのかを学んできたのではないか。それが、人類の「知恵」というものなのではないか。そんなことを感じてもいるからです。

新型コロナは多くの方々を苦しめました。経済的・実際的に、精神的に苦しめていきました。そして、人生を閉じてしまわれた方々も多くおられます。これは、先ほども言いましたように、私たちの住む社会の大きな課題です。もちろん、私たちも無関係ではありえません。もっと出来ることがあったのではないか、と問われる。無力感も感じる。しかし、私は、もう一つのことを感じています。神学的な言い方をすれば「終末論」が希薄になってしまったためではないか、と。「終末論」というものは、世界の終わりを意味するものです。そこには、戦争や天変地異、禍い、迫害などのおどろおどろしさも出てくる。

しかし、それだけではありません。新しい世界の到来を告げるものです。この世の矛盾が全て消え去って、人類を脅かす死も苦しみも病も争いも罪も全てが無くなって、愛なる神さまが支配される全てが整った、調和に満ちた、誰もが夢みる、憧れる世界がやってくることを告げるものです。つまり、私たちが生きるのは、この世界だけじゃない、ということです。そして、必ず報われる、ということです。残念ながら、自ら人生を閉じてしまわれた方々の多くが、そんな世界を見ることができなかったのではないか、と思う。この世・この世界のことしか見えていなかったのではないか、と思う。そうであれば、当然、どこかで行き詰まってしまうのでしょう。この世界で展望を見出せない人たちは特に…。

どうせこの先、何も変わらないではないか。あいも変わらずギリギリの生活で追い立てられるだけではないか。こんな自分が幸せになれるだろうか。幸いな家庭を築けるだろうか。全く不可能としか思えない。良くはならない。年をとって悪くなる一方だ。そんな人生なら辞めてしまえ。気持ちは分かる。私自身、そう思ったことがなかった訳じゃない。

そうです。私たちの世界は不公平なのです。どれほど社会が変革しても、恵まれた人と、そうでない人とが生じてしまう。しかも、その原因は自分のせい、お前の努力が足りなかったからだとされてしまう。そんな世界を生きたい、と思うだろうか。しかし、私たちが生きる場所は、この世界だけではないのです。たとえ、この世界では不遇であったとしても、恵まれない人生だったとしても、必ず報われる世界がある。評価されなくても、認められなくても、取るに足らないことだとしても、誰もがしていることに過ぎないとしても、それをつぶさに見ていてくださる、評価していてくださる、報いてくださる方がいる。そんな世界が待っている。だから、生きていける。

だから、正直に生きていける。この世界ではバカを見るだけかもしれないが、神さまが見ておられて、必ず報いてくださることを知っているからこそ、嘘をつかないように、誤魔化さないように、人の功績を奪い取らないように、正直に生きていける。道端に捨てられたゴミを拾い、見知らぬ人の倒れている自転車を起こし、余分にお釣りをもらったら正直に申告し、みすぼらしい食卓かもしれないが皆で分け合い、自分よりも困っている人がいるとささやかながら義捐金を捧げ、挨拶し、元気と声を掛け合い、笑顔で答え、祝福を祈り、時に些細なことで笑い合う。

負け組でしかない人生かもしれない。つまらない、目立たない、流行らない人生かもしれない。しかし、希望を持って、小さな幸せに喜んで生きることができるのかもしれない。神さまがちゃんと見ていてくださるから。ちゃんと答えて、報いてくださるから。幸いな世界へと導いてくださるから。きっと…。そう信じて…。

ミケランジェロ 最後の審判 システィーナ礼拝堂


「終末論」なんていう堅苦しい言葉など使う必要はありません。しかし、この現代よりももっと困難な時代に希望を持って生きてきた人々の「希望の拠り所」を私たちは見失ってしまっていたのではないか、伝えて行くことを怠ってしまっていたのではないか、と、今更ながらに反省させられています。
「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた」。今日の福音書の言葉です。「神殿の方を向いて座っておられると」と言われていますが、イエスさまはそこで何を見ておられたのでしょうか。普段と変わらない礼拝の様子でしょうか。人々の動きでしょうか。祈る姿でしょうか。もっと先の姿…、ローマ兵によってエルサレムが陥落し、神殿が破壊されていく姿。街に火の手が上がり、人々が逃げ惑う姿。あるいは、もっと先の姿…。そう、イエスさまはこの先に何が起こるのかをご存知でした。

それは、単に紀元70年に起こった歴史上の出来事だけではありません。戦争がある。自然災害、飢饉が起こる。苦しみが、試練が、不幸が、悩みがある。そんな世界を、私たち人類の営みを知っておられた。見ておられた。だからこそ、宣教をされたのかもしれない。神の国のことを伝えて行かれたのかもしれない。そんな世界の中にあっても、希望を見失わないように、と。

今年も大雨が降りました。地震も火山の噴火もありました。日本は自然災害国だと言われます。しかし、普段私たちはそのことをすっかり忘れてしまっている。この時代の人たちもそうでしょう。ローマに対しての、現政権に対しての不満もある。少しでも世の中が良くなれば良いのに、自分たちの生活が改善されれば良いのに、と思っていたに違いない。しかし、今が永遠に続くとは思わないにしろ、少なくとも自分たちが生きている間に神殿が崩されるようなことになるなど誰も思っていなかったでしょう。むしろ、イエスさまだけが現実をしっかりと見据えていた、と言えるのかもしれません。そんなイエスさまはこう語られた。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。

「耐え忍ぶ」とは、しっかりと自分の足で立つ、と言うことです。最後まで立ち続ける。もちろん、自分一人で立ち続けられるならば申し分ないかもしれませんが、杖をついてでも、誰かに支えられながらでも良いと思います。ともかく、最後の最後まで立ち続ける。この信仰に。そして、私たちの目には見えていないと思いますが、その背後には、しっかりと神さまの手があるのだと思うのです。私たちを立たせてくださっている力強い手が。それを信じていく。

人生には、世界には、苦難・困難はつきものです。この世界もやがて終わりを迎える。しかし、それは、虚しいもの、絶望ではないはずです。そこに、救いの御手が伸ばされている。私たちの悩み、労苦が報われる世界が待っている。その信仰をもう一度見つめ直したい、と思う。困難な時代だからこそ、そう思うのです。