【 説教・音声版】2021年12月12日(日)10:30  待降節第3主日礼拝 説教 「わたしではない 」 浅野 直樹 牧師

待降節第3主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書3章7~18節

来週はいよいよ、日本のプロテスタント教会の常として待降節第4主日に行うという歪な形にはなりますが、クリスマスを祝う礼拝を行います。オミクロン株のことは気がかりではありますが、おそらく現在の感染状況ですと人数制限もなく、久しぶりに聖餐式も行うことができると思います。何だか心躍る気持ちになります。しかし、その前に、私たちは大変厳しい言葉を聞かされることになりました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。洗礼者ヨハネの言葉です。

先週に引き続き、この待降節第三主日も洗礼者ヨハネのことが取り上げられていました。不思議なことに、イエスさまの到来を待ち望むこの待降節第二、第三と暗示はあるものの、直接的にはイエスさまは登場してきません。それよりも、この季節こそイエスさまとお会いする準備をするように、とのことでしょうか。ともかく、今朝もご一緒に、この洗礼者ヨハネの記事から考えていきたいと思います。

先週もお話しましたように、この洗礼者ヨハネはイエスさまの先駆者だと考えられています。イエスさまが来られる前に、「準備のできた民を主のために用意する」ためです。そのために彼が何をしたかと言えば、先ほどの言葉のように、人々に悔い改めを説くことでした。では、なぜ悔い改めを説く必要があったのか。私たち人類が罪を犯していたからです。しかも、そのことの自覚が足りなかったからです。では、罪を犯す人類はどうなる

のか。神さまの怒りに触れ、裁かれることになる。だからヨハネはこう語っていったのです。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。それが「準備のできた民を主のために用意する」ことだったのです。

私たちは、こう思うのかもしれません。この洗礼者ヨハネとイエスさまとでは、随分と印象が違うな、と。あるいは、こう考えるのかもしれません。ヨハネが認識していた神さまのお姿とイエスさまが教えてくださった神さまのお姿とでは、全然違っているな、と。

確かに、そうかもしれません。この洗礼者ヨハネは最後の預言者ともいわれる人物です。つまり、彼にとっての神さまとは旧約聖書の神さま、ということです。皆さんもそうかもしれませんが、昔から旧約聖書の神さまは大変厳しい、すぐにお怒りになる神さまで新約聖書の神さまは愛なる神さま、といった理解をする方々が少なくありませんでした。

確かに、そういった印象は否めないのかもしれません。しかし、それは間違いです。旧約聖書にもこのようなことが記されているからです。エゼキエル書18章21節から。「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。これは、先ほども言いましたように旧約聖書の言葉です。ここに、新旧両聖書を貫いた神さまの思いが込められています。確かに、神さまはお怒りになります。

ラファエロ『説教する洗礼者ヨハネ』ロンドン、ナショナル・ギャラリー


罪に対して、罪を犯す者に対してお怒りになります。それは、当然のことです。しかし、罰を与えることが、死に至らしめることが、滅びに突き落とすことが本意ではないのです。そうではない。断じてない。悔い改めてほしいのです。神さまの元に立ち帰って、少しでも罪・過ちから離れて生きてほしい、生きる者となってほしい。そう願っておられる。たとえアプローチの違いはあったとしても、それはイエスさまも同じはずです。だからこそ、たとえイエスさまと違って、ガンガンと罪を糾弾して、悔い改めを迫るような方法をとったとしても、やはり洗礼者ヨハネはイエスさまの先駆者なのです。

そのヨハネの痛烈な言葉に人々はどう反応したか。無視し素通りしていったのか。馬鹿にしていったのか。嫌悪感を抱いて唾を吐き捨てていったのか。そういった人もいたかもしれません。しかし、多くの人はこう反応したといいます。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と。これは、牧師にとっては、いいえ、牧師だけじゃないないでしょう、何かを説いていく人々にとっては、伝えていく人々にとっては、嬉しい反応だと思います。心が動かされているからです。説教を聞いて、話を聞いて、心が動く。これは牧師冥利に尽きる。ともかく、この反応を見るだけでも洗礼者ヨハネの働きが成功していたことを物語っていると思います。

そんなヨハネによって心動かされていた人たちは、こんな期待を抱いていたと聖書は語ります。「もしかしたら彼がメシアではないか」と。周辺諸国、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた当時の人々はメシア・救い主を待望していたようです。そんな期待感とこの洗礼者ヨハネの姿がまさにピタッと一致したのでしょう。猛々しく力強い、まさに古(いにしえ)の預言者の風格をもったこのヨハネが…。それに対して、イエスさまのお姿は似つかわしくない、と思われていたのかもしれません。ともかく、そんな群衆の期待感に対して洗礼者ヨハネは「わたしではない」とはっきりと答えていきました。

洗礼者ヨハネは最初っから、自分には人を救う力などないのだ、ということを自覚していたのでしょう。ですから、周りがどんなにメシアではないかと期待を寄せたとしても、決して動じることはありませんでした。むしろ、彼は自分の使命に、本当の意味で人を救うことがおできになるイエスさまへの道を拓く務めに、没頭していったのだと思います。「わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に
入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。

今朝の日課の最後に、こんな言葉が記されていました。18節、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」。この言葉は、よくよく考えてみますと不思議な言葉のように思います。ここのどこに「福音」があるのか、と思えてくるからです。「福音」とは良い知らせのことです。しかし、彼が語ったのは、悔い改めを迫る言葉でした。神さまの怒りについてでした。「では、わたしたちはどうすれば良いのですか」と尋ねなければいけなくなるほど人々を不安にさせる言葉でした。確かにヨハネは自分の後に来られるメシアについても語っています。しかし、ヨハネが語ったメシアはやは
り裁く方なのです。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。これのどこが福音と言えるのか。

しかし、これはやはり福音なのです。最初に言いましたように、神さまの本意は人を裁くことではなく、人を生かすことです。ですから、悔い改めを求められる。しかし、残念ながら私たち人類は、それさえもできないのです。真に悔い改めて自分を生かすこともできない。では、私たちはやはり神さまの怒りのもとにおかれるのか。「YES」です。だからこそ、イエスさまは来られたのです。確かに、洗礼者ヨハネが理解していた、宣べ伝えたメシア・救い主は裁く方だったのかもしれない。しかし、聖書が告げるイエスさまのお姿は、それだけではないからです。聖書が告げるイエスさまのお姿とは、何よりも十字架につけられたイエスさまです。私たちの罪を背負い、神さまの怒りを一身に受け、自らの命を犠牲にして私たちを救い出してくださった、あの十字架のイエスさまだからです。

以前もお話したことがあると思いますが、16世紀の画家グリューネヴァルトが制作しました「イーゼンハイムの祭壇画」というものがあります。そこに記されています磔刑のイエスさまは本当に無惨な姿です。見るものの心を抉るような姿です。その向かって右に洗礼者ヨハネの姿が描かれている。そして、その右手は磔刑のイエスさまを指し示しています。少し大きく目立つように描かれた手で…。私はこの祭壇画を見て、私もイエスさまを指し示す手(指)になりたい、と思いました。

私たちが、その誕生を待ち望むイエス・キリストとは、そんな洗礼者ヨハネが指し示したメシア・救い主なのです。自分などどう思われても構わないと思えるほどに、私たちを救ってくださる方。十字架と復活の主。私たちを生かすことに、真に生きる者とすることに全身全霊を傾けてくださる方。この方の誕生を祝っていきたいと思います。