顕現後第三主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書4章14~21節
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
先週もお話ししましたが、今は教会の暦では「顕現節」ですので、今日も明らかにされた(公にされた)イエスさまのお姿(イエス・キリストという存在)という視点で少し考えていきたいと思っています。
皆さんもよくご存知のように、ヨハネ福音書は次の言葉ではじめられていきます。「初めに言があった」と。これは、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という記述と重ねてのことだと言われます。ここでヨハネ福音書はイエスさまのことを「言」と表現しているわけですが、これは非常に意味深長ですが、いくつか明らかなこともあると思います。
一つは、「言」であるイエスさまは天地創造のはじめから存在しておられ た、ということです。そして、もう一つは、この「言」は、単なるコミュニケーション・ツール以上のことを指している、ということです。なぜなら、創世記1章3節の「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」に代表されますように、この創造の業は、神さまの「言」によって実現されていったからです。その「言」とイエスさまは深く結び付けられている。ですから、ヨハネ福音書はこうも続けていくのです。「言は神と共に あった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。「言」とは神の子、神さまそのものであり、神さまの思い・御心・ご計画は、この「言」によって必ず実現するのだ、とヨハネ福音書は語っているのです。
それが、ヨハネ福音書が示すイエスさまのお姿でもある。後で、もう少し触れたいと思いますが、今日の福音書の日課でもそうでしょう。聖書・イザヤ書が朗読されたとき、イエスさまはこう語られたからです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
今日の福音書の日課は、イエスさまの宣教活動のはじまりを指すものです。そこで、このように記されていました。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」、そして、「イエスは諸会堂で教え」られた、と。その具体的な一例として、16節以下のナザレでの出来事が記されているわけです。
ご存知の方も多いと思いますが、日本語で「教会」と訳されています元々の言葉は、ギリシア語の「エクレシア」という言葉です。このエクレシアは、もともとは人々の集い、集会を意味する言葉でしたが、それをキリスト教が用いたことによって、「神さまの呼びかけ(召し)に応えた者たちの集い」という意味に発展してきたと言われます。それを、日本では「教」える「会」としてしまった。だから、日本のキリスト者たちは、勉強熱心なのは良いが頭でっかちで、信仰の何たるかが分かっていない、といった指摘も出てきたわけです。
またそこから、日本の教会員は、中産階級知識層にあまりにも偏っているのではないか、とも言われたりする。私自身も、以前からそういった問題意識を持ってきましたので、「信仰とは生活だ」と言ったりしてきた訳です。確かに、そういった指摘にも耳を傾けるべきだと思いますし、私たち自身の姿勢も見直していく必要があるのかも知れませんが、しかし、それは教えられることを、学ぶことを軽視することにはつながらないはずです。なぜなら、今日の箇所にも、イエスさまは会堂で教えられたと、はっきりと記されているからです。
この会堂、「シナゴーグ」とも言われます。このシナゴーグの発生は、バビロン捕囚期ではなかったか、と言われます。唯一の礼拝の場であった神殿に、物理的にも行くことが不可能だったからです。そこで、彼らは礼拝の場を、自分たちのアイデンティティーを保つ場を作る必要に迫られた。今の私たちとどこか似たところがあるようにも思います。ともかく、捕囚からの帰還後もこのシナゴーグはなくならず、神殿が再建されたイエスさまの時代にも多くのシナゴーグがあったことが分かっています。
そして、そのシナゴーグで行われていた礼拝が、今日私たち教会の礼拝の原型ともなったと言われている。必ず聖書朗読が行われ(律法、預言書など数カ所)、その聖書の解説が行われ、祈りがあった。あるいは、このシナゴーグは子どもたちの学校としても用いられたり(聖書を学ぶための教育といっても良いでしょう)、公民館のように用いられたり、時には裁判所のようにも用いられていた、といいます。彼らの信仰生活・実生活の中心にあったと言っても言い過ぎではないでしょう。ともかく、ここにも私たち教会のルーツがあるというのです。そし て、イエスさまはここで教えられた。礼拝のたび毎に、あるいはことあるごとに教えていかれた。そのことを、私たちも忘れてはいけないでしょう。
先ほども言いましたように、日本の教会の特徴とも言われた知的な学びに傾きすぎてしまうことは問題なのかもしれません。しかし、逆に今日、あまりに「聖書」の学びから遠ざかってしまってはいないだろうか、と私自身は課題を感じています。
先ほど私たちは、このように祈りました。「祝福あふれる主なる神様。あなたは民の養いのために聖書を与え、御言葉を書き留めてくださいました。私たちが御言葉を聴き、読み、学び、覚えて、身につけることができますように。それによってあなたの約束を確かめ、慰めをいただき、永遠のいのちに与る望みを、大切に保ち続けることができるようにしてください」。この祈りの言葉は、以前の日課にはないものです。また、これほど御言葉・聖書に思いを集中した祈りの言葉も、正直記憶にありません。そういう意味では、先ほど言ったような問題意識が、この祈りの言葉の作成者の中にもあるのかも知れない。ともかく、私たちはこの祈りの言葉にも「アーメン」と唱えた、同意したのですから、今まで以上に御言葉に思いを向けていきたいと思うのです。
イエスさまは「霊(聖霊)」の力に満たされて、会堂・シナゴーグで教えていかれました。そして、皆から尊敬を受けられた、と記されています。これが、イエスさまのお姿なのです。そして、それは、私たちのこの教会においても繋がっていることではないでしょうか。見える形ではないのかも知れませんが、イエスさまはこの私たちの教会をも訪ねてくださり、御言葉・聖書を教えてくださっている。そして、それは、私たちが御言葉に生きる、生かされるようになるためです。
しかし、それは、単に律法を遵守すること、つまり、私たちふうに言えば倫理・道徳的な実践ということばかりではないはずです。先ほどの祈りの言葉の中にもありましたように、聖書を学ぶということは、神さまの約束の確かさを確認していくことだったり、様々な機会に慰めをいただいていくことだったり、永遠のいのちに与る望み、つまり、神さまはいついかなる時にも私たちを決して見捨てたまわず、永遠に、死さえも乗り越えて常に私たちと共にあり、必ず私たちに良きことをしてくださるという希望に生きるということでもあるからです。
それらは、聖書を教えられることによってこそ、御言葉を学ぶことによってこそ、はじめられていくからです。しかも、その学びとは、私たち自身にかかっている、ということでもないのです。普通「学び」とは、教える側がいかに優秀だとしても、それを吸収する学ぶ側にかかっていると思われがちですが、聖書・御言葉の学びはそうではないのです。なぜなら、イエスさまはこう語られるからです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。聖書の言葉の実現を知らしめてくださるのはイエスさまなのです。イエスさまがお送りくださった聖霊の働きなのです。私たちは、その場に立ち会えば良い。
聖書が、御言葉が、私たちに意味を持って迫ってくるのは、イエスさまの、聖霊の業でしかない。聖書の言葉を、神さまの思いを実現されるのが、現実のものとされるのが、イエスさまだからです。しかし、私たちにもなすべきことはあるはずです。それは、その場にいる、ということ。このシナゴーグにいた者たちだけが、このイエスさまのお姿に出会えたからです。そして、聖書の言葉を聞く、ということ。イザヤ書の朗読を人々が聞いたからこそ、「実現した」という言葉を聞くことができたからです。つまり、私たちの言うところの「勉強」とはいささか違っているということです。
イエスさまは私たちの救い主として来てくださった。それを聖書は語っているし、何よりもイエスさまご自身がそれを実現してくださいました。だからこそ、改めてこう祈りたいと思う。「私たちが御言葉を聴き、読み、学び、覚えて、身につけることができますように」と。学問的研鑽のためではない。知識を身につけるためでもない。キリスト者がなすべき苦行でもない。イエスさまの恵みを、救いを実感し、確信していくためです。
祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。新型コロナの感染が爆発的に増え、今後このように相集っての礼拝ができなくなってしまうかも知れません。しかし、私たちには御言葉があります。与えられています。個人的に読むには難しさも感じますが、『知的理解』以上に、あなたがお送りくださったイエスさまとの出会いとなる学びとなりますように、ご聖霊が豊かに導いていってくださいますようお願いいたします。また、私たちが祈りの中でそのことを求め続けていくことができるようにもしてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン」