四旬節第二主日礼拝
ルカによる福音書13章31~35節
今日は、はじめに旧約の日課を見ていきたいと思います。
アブラハムがまだ改名する前、アブラムを名乗っていた頃のことです。ある時、幻の中で神さまの語りかけを聞きました。
実は創世記12章で、アブラムは次のような召命を受けていました。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』」。これは、子孫と土地を与えるとの約束でもあるわけです。この言葉に従って、アブラムは旅立ちました。75歳の時でした。
あれから、どれくらいの時が流れたのかは分かりません。少なくとも、何年かは経っていたのでしょう。しかし、子孫…、子どもが与えられる兆候は見られません。約束の土地も手に入れてはいない。今日の箇所は、そんな時に与えられた言葉でした。アブラムは率直に尋ねました。まだ子どもが与えられていない、と。このままでは、召使いが自分の後を継ぐことになるだろう、と。一体、あの約束はどうなったのか、と。おそらく、不満もあったと思います。そこで、神さまはもう一度、子ども・子孫と土地を与えると約束されたのです。しかも、ここでは前回とは違っていました。いわゆる単なる口約束ではない、契約をはっきりとした形で示されたからです。
動物を「真っ二つに切り裂き、それぞれ互いに向かい合わせて置いた」というのは、私たちには全く馴染まないことです。むしろ、グロテスクでさえある。しかし、古くからこの地方では、契約の仕方としてあった、と言われます。この切り離された動物の間を契約を交わす当事者同士が歩くのだ、と言います。それは、万が一にも契約を破るようなことがあれば、この動物のような目に遭っても構わない、ということを意味する。ある意味、呪いとも思われる契約儀式です。それを、ここで神さまはアブラム・アブラハムと結ぼうと言われる。しかも興味深いのが、17節です。こう記されている。
「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」と。この「煙を吐く炉と燃える松明」というのは、おそらく何らかの神さまの臨在を指すのでしょう。だとすれば、先ほど言いましたように、本来ならば当事者同士、つまり、ここで言えば神さまとアブラムとが共に歩くところを、神さまのみが歩いたことになる。つまり、ご自分一人だけがこの呪いをあたかも引き受けるかのように。
契約とは本来、対等なものでしょう。双方に義務と責任が課せられる。しかし、この契約の様子を見る限り、神さまの方が熱心であったことが分かると思います。たとえ相手が裏切るようなことがあったとしても、そのために呪いを被るようなことがあったとして も、あなたとの約束は必ず守る、といった気合を感じる。そして、そんな神さまのお姿 が、今朝の福音書のこの言葉とも重なる気がしてならないのです。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」。ここに至っては、もはや契約ですらない。親子の情です。親鳥が雛鳥に示す愛情です。慈しみです。そんな思いを、神さまはあの契約を結ばれたアブラハムの子孫、イスラエルの民たちに抱いておられるのだ、というのです。
そういう意味では、旧約聖書はまさに親不孝の物語と言えるのではないか。よく旧約聖書は、人間の罪の物語 り、神さまへの裏切りの物語りだ、とも言われますが、確かに、そうかもしれませんが、それ以上に、子どもが、私たち人類が親を、親である神さまを悲しませる、泣かせる、親不孝の物語りとも言えるのではないでしょうか。
「親不孝」、おそらく多くの人の心に刺さる言葉だと思います。私も、その一人です。散々親を悲しませてきてしまった。しかも、若い頃は、そんなことにも気付けませんでした。昔の刑事ドラマの落とし文句に「親が泣いているぞ」というのがありましたが、それが急所をついていたからでしょう。現代は、そういったことも変わってきているのかもしれませんが…。ともかく、「親不孝」はリアルな言葉です。多くの人が痛みを感じる。しかし、こと神さまのことになると、信仰の事柄になると、どうしても概念的になってしまうところがある。
イエスさまはこう語られました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。なぜアブラハムの子孫たちは、あれほどまで神さまを裏切っていったのか。神さまを見捨ててしまったのか。神さまを蔑ろにしていってしまったのか。本当に不思議です。先ほど旧約聖書は人間の罪の物語りと言いましたが、旧約聖書を読んでいきますと、こんなにも変わり身の速さに唖然とさせられるのも正直な気持ちです。救っていただいた、助けていただいた恩を忘れて、すぐに神さまを見捨てていく。
しかし、果たして自分はどうなのか。確かに、あからさまに神さまを見捨てるようなことはしていないかもしれない。ちゃんと礼拝にも出て、祈ってもいる。しかし、本当にそれで神さまを悲しませていないと言えるだろうか。親不孝をしていないと言えるだろうか。私自身、恩知らずになってはいないだろうか。あんなにも助けられたのに、あんなにも救われたのに、あんなにも感謝できたの に、その出来事が過ぎ去って、時間が経って、記憶が薄れていって、感謝も、神さまとの向き合い方も、希薄になってはいないだろうか。あるいは、意固地になって、自分を正当化して、理由をあれこれつけて、神さまの呼びかけ、招き、御言葉を拒んでいる自分はいないだろうか。私自身は、そう問われる。自分と切り離して、彼らを単純に非難することができない自分に気付かされる。
彼らイスラエルの民たちは、あのアブラハムの子孫です。使徒パウロが、あの信仰義認理解の基礎の一つとした、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と言われる信仰の人の子孫です。モーセを介して律法が与えられ、多くの預言者たちを通して神さまの御旨が明らかにされていった人たちです。誰よりも、み言葉を通してご自身を示された神さまを信じるにふさわしい人たちです。なのに、彼らはズレ、歪み、破れて、神さまから離れていく。めん鳥が自分の雛たちを一所懸命に守ろうとされているのに、親の心子知らずとばかりに、親の保護下から逃げ出そうとする。そんな民たちを放ってはおけず、御子を遣わされたのに、その御子を受け入れないばかりか、殺そうとさえする。あのアブラハムの子孫でさえ、そうなのです。約束に満ちた彼らでさえ、そうだった。残念ながら…。ならば、私たちはなおさらなのかもしれません。残念なことに…。
人を救うことに熱心なのは、私たちじゃない、神さまです。私たちが、神さまから離れないのではない。しがみついているのではない。神さまが、私たちのことを放ってはおけないのです。親不孝な私たちを。だから、イエスさまは進まれる。神さまの御心を成すために、自らの意志で進まれる。たとえ、命の危険があったとしても。いいえ、命を捨てなければならないとしても。
「『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』。…今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。まさに、あの引き裂かれた動物の呪いを一身に受けるかのようです。契約を破ったのは、私たち人類の方なのに。私たち自身が、あの引き裂かれた動物と同じ目に遭っても文句が言えないのに、神さまの方がそれを引き受けてくださった。引き受けて、ご自分の愛する独り子の死によって、まさに心を、命を引き裂いてくださった。親不孝の私たちのために。
ここまでしていただいたのに、それでも、もしこのイエスさまの十字架に敵対するようなら、それはもう「人でなし」でしょう。パウロは今日の使徒書の日課で、残念ながらこう語っています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。もちろん、そうなって欲しくないと思って書いているわけです。あの、イエスさまの時代のユダヤ人たちのように、神さまの招きを拒んで欲しくない、と。イエスさまを、救い主を、しかも十字架につけられた神の独り子を拒んで欲しくない、と。
これからの時代、ますますこのイエスさまの十字架に、神さまのご愛に、神さまが下さろうとする平和に敵対するような考えが蔓延っていくのかもしれません。むしろ、自分自身を救え、救ってみろ、という力を求める声が高まっていくのかもしれない。私たちは、本当に厳しい時代に立たされていくことにもなりかねないのです。だからこそ、地の塩、世の光として、この十字架にますます立っていきたいと思うのです。そして、なおも十字架の福音を、この世界の人々に届けていきたい、と願わされます。