【説教・音声版】2022年5月15日(日)10:30  復活節第5主日礼拝  説教 「わたしが愛したように 」 三浦 慎里子 神学生



ヨハネ13:31-35

「わたしが愛したように」 於:むさしの教会ついにその時がやってきました。イエス様は弟子たちの汚れた足を自ら洗い、共に食卓を囲まれます。後にイエス様を裏切る弟子のユダが、夜の闇の中へと消えてゆき、十字架の死へのカウントダウンが始まりました。ご自分が天の父のもとへと帰る時が来たことを悟ったイエス様は、「告別説教」と呼ばれる長大な教えを残されることになるのですが、本日の福音書のテキストはその告別説教の直前、弟子たちとの別れの時が迫る中で、イエス様が弟子たちに語られた最初の言葉です。

まず、イエス様はこう言われます。「今や、人の子は栄光を受けた。」栄光は、ヨハネ福音書で多く使われる言葉です。父なる神の御心を行うために、人としてこの世に遣わされた神の子イエスが、様々なしるしを通して神の栄光を現わしていく様子が、福音書全体を通して描かれています。イエス様は、ユダが動き出した時、ご自分が裏切られ、十字架にかけられて死ぬことを悟っていました。全てを悟った上で、「栄光が与えられた」と語っておられるのです。

十字架の上で罪人として無残に処刑されることが栄光でしょうか。この世の基準で考えれば、輝かしさや偉大さとは最もかけ離れた状況でしょう。しかし、イエス様の十字架は、復活と、そして父なる神のもとへ引き上げられることと結び合わされています。十字架刑に処されることは、同時に神のもとへと戻って行くことでもあるので、栄光だと言われるのです。その時が、ついに来た。神様の偉大な御心が明らかにされる時が。ご自分の命と引き換えにすべての人を救う時が来たのです。

時の到来という決定的な契機を迎えて、イエス様は弟子たちに語りかけられます。「子たちよ」と。イエス様と弟子たちの間にある親密な絆が感じられます。私がいなくなったら、この者たちは悲しみに暮れるだろう。混乱し、私を求めるだろう。共に旅をし、多くを語り合った弟子たち。私を信じてついてきてくれた弟子たち。一人一人の顔を見ながら、イエス様は何を思われたでしょうか。ご自分が不在の間も、弟子たちが、試練に打ち勝ち、御国に迎えられる日まで耐え忍んで欲しい。そう思われたのではないでしょうか。ここでイエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」と言われます。

これは、ヨハネ福音書8:21 でファリサイ派の人々に向かって語られたのと同じ言葉ですが、その意味合いは大きく異なっています。ファリサイ派の人々に対しては、信じない者への裁きと追放の言葉として発せられました。しかし苦楽を共にし、自分を信じてついて来た弟子たちへの言葉が、これと同じ意味で発せられたはずがありません。先週のお説教の中で浅野先生がお話されていたように、イエス様を神の子と信じる者たちが、神様とイエス様との深い関係の中に入れられていることが前提となっています。御国に入るその日まで、しばし別れなければならないけれども、あなたたちにはなんとか頑張って欲しいんだと。そこで、イエス様が弟子たちに与えられたものが、「互いを愛する」という内容の掟でした。

弟子の足を洗う:ティントレット (1519–1594) プラド美術館


「互いに愛し合いなさい」と聞いて、皆さんはどう思われますか。人それぞれ程度の差はありますが、私たちは日々の生活の中で他人に多少なりとも気を使い、責任感と思いやりを持って接しています。悩みの相談に乗ることもあるし、慈善活動に参加している人もいるかもしれません。家族も大切にしています。私たち、結構頑張っていますよね。完璧じゃないけれど、それなりに愛してはいるでしょう。それなのに、更に「互いに愛し合いなさい」と言われる。今でも頑張っているのに。しかも、イエス様はこれを「新しい掟」と呼ばれています。愛することが新しい掟?そんなこと、モーセの律法でも言われていますから特に新しいものだとは感じられません。
ところが、この掟はやはり新しいのです。それは、この後に続くイエス様の言葉「わたしがあなたがたを愛したように」という点において新しいのです。イエス様ご自身に根拠がある愛だからです。「掟」と聞くと、旧約聖書のモーセ律法を思い出しますが、ここでイエス様が与える掟はキリストの律法です。命令であるモーセ律法とは決定的に違い、キリストの律法は、キリストの愛を知った人にしか受け取ることのできない律法です。

私たちが家族や友人を愛したり、他人に親切にしたりすることは、尊く素晴らしいことだと、間違いなく言うことができます。しかし、同時に私たちは、自分の愛にはひび割れや欠けがあることに気付いています。自分にとって価値が無いものを愛することは難しいですし、愛したとしても、愛を返してもらえなければ不満や悲しみが募ります。元気で満ち足りている時には愛せても、ひとたびそれが損なわれればその愛も移ろいがちになります。壁にぶつかる時、私たちの愛はたびたび揺らぐものではないでしょうか。更に、世の中では多くの人が、自分自身のことさえも愛することができないという苦しみを抱えながら生きています。

自らの命を奪ってしまう人が後を絶ちません。私たちが愛するだけでは、平和は、そのひび割れから、欠けからこぼれ落ちていってしまいます。私たちが自分の力だけで愛することには限界があると思います。弟子たちも私たちと同じく限界を持った人間でしたし、イエス様はそのことを良く分かっておられました。だからこそ言われるのです。「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と。この箇所は、「互いに愛し合いなさい」とはっきり命令口調で訳されていますが、原文では明確に命令口調で書かれているわけではありません。「わたしはあなたがたに新しい掟を与える、あなたがたが互いを愛するという」と、このような感じの文章なのです。命令されるというより、提案されているような少し柔らかい印象があります。へたくそな文章だと言う人もいます。

しかし私はここに、弟子たちの弱さも知り尽くした上で、それでも、私の愛に結ばれたあなたたちならできるはずだよと語りかけておられるようなイエス様の優しさと弟子たちへの信頼を感じます。イエス様が愛してくださったように愛するということは大変なことでしょう。自分の力だけでは達成できません。しかし、私たちの愛のひび割れや欠けたところには、イエス様の愛が染み込み、隙間が埋められます。私たちは一人で愛するのではなく、キリストと共に愛するのです。これは大きな励ましです。こんな弱い私でも、イエス様の愛が共にあるならばできるかもしれないと、力が湧いてくるのではないでしょうか。

そして、そのイエス様の愛は十字架の死に現わされています。イエス様の愛は十字架の形をしています。この十字架の形をした愛、ご自分の命を捨ててまで私たちのことを救おうとしてくださったイエス様の愛を、自分のものとして受け止め、心に刻み込む時初めて、私たちはイエス様と神様との深い関係に結ばれている自分を知り、この新しい掟を受け取ることができます。キリストの律法に従って生きる者とされるのです。

本日のテキストの最後にイエス様はこう言われます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と。イエス様はここで、「わたしの弟子であることを皆に知らせなさい」とは言っていません。私たちが与えられた掟に従うならば、おのずと皆が知ることにな るだろうと言っているのです。私たちが生きるこの世界のあらゆる場所では、今 も、戦争や分裂が起こり、尊い命が奪われています。争いだけでなく、孤独も人間を内側から蝕みます。愛に飢えている人がたくさんいます。この世界には愛が 必要です。私たちは、毎週この教会で、みことばから福音を受け取り、またそれぞれの場所へと帰っていきます。それは地味で小さなことに思えるかもしれま せん。

イエス様の教えは、時に私たちの耳には現実味のないきれいごとにしか聞 こえない時もあるかもしれません。しかしその教えこそが、私たちを日々の試練 や誘惑の中で踏みとどまらせ、あるべき場所に立ちかえらせます。みことばの恵 みが、暗闇の中でどれほど明るく輝くかは、私よりも先輩である皆さんの方が、 信仰生活を通してたくさん経験しておられるのではないでしょうか。そして、私 たちの間でキリストの律法に従って起こることは、たとえ小さなことでも、やが て波紋のように広がっていくでしょう。悲惨な状況にある世界に向かって。

愛に 飢える人々に向かって。私たちはそのことを信じて歩み続けるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」イエス様によって示された愛は、私たち一人一人の欠けた愛を埋めるだけではなく、イエ ス様を信じて従う人全てを結び合わせます。私たちを決してひとりきりにはし ておかれないお方に信頼して、共に歩んでいきましょう。