申命記 30:9-14、コロ 1:14、ルカ 10:25-37
「隣人になる」 於:むさしの教会福音書には、イエス様が語られたたとえ話が数多くおさめられています。たとえ話の背景には、当時の社会の状況や人々の生活習慣、考え方などが反映され ていますから、現代の私たちにとっては馴染みの無い言葉も出てきます。しかし、イエス様がたとえ話を通して教えようとされる物事の本質は、現代を生きる私 たちにとっても常に新しく、気付きを与え、私たちの生きる道標となるものです。クリスチャンでなくても知っているほど有名なものもいくつかあります。
本日の福音書の箇所でイエス様が語られたたとえ話も「善きサマリア人のたとえ」として広く知られています。今日の福音書の箇所の前半部分、律法についての会話はマルコとマタイにそれぞれ並行箇所がありますが、この善きサマリア人のたとえの部分はルカだけに記されたものです。それは、ある律法の専門家がイエス様に質問をしたことから始まりました。イエス様は語ることも素晴らしく、人々の病を癒し、奇跡を起こしていましたから、人々の中には、イエスは預言者だとか、エリヤの再来だとか言う人もいました。この律法の専門家は、人々が噂をしているイエスという人物がどんな人なのか、律法の知識はどれほどのものなのか見てやろうと確かめに来たのでしょう。
永遠の命を得るには何をすべきか、という律法の専門家からの質問に、イエス様は、律法には何と書かれているかと問い返されます。相手は律法の専門家ですから、答えはもちろん完璧な模範解答です。「神を愛し、隣人を自分のように愛することです。」イエス様は律法学者の答えを正しい答えだと肯定し、それを行いなさいと言われます。質問したのは自分の方なのに、質問で返された上に、それを行いなさいとまで言われた律法の専門家は面白くなかったでしょう。彼は更に食い下がって質問します。「では、わたしの隣人とはだれですか。」これはひっかけ問題です。
「隣人」というのは、ユダヤ教では厳密な概念です。同じ信仰を持ち、ユダヤ人として生きている人のことを意味します。隣人とは、あくまでもユダヤ教の共同体のことを言うのであって、異邦人や違う信仰を持つ汚れた人々は隣人に含まれていなかったのです。当然、この律法の専門家も自分の隣人はユダヤ人だと考えていたでしょう。律法の専門家はイエス様が答えるのを待ち構えます。イエス様が「それは律法を守っている人だ」と答えれば、狙い通りです。なぜならイエス様は、当時世間から罪深い人たちだと蔑まれていた人々と共に過ごしておられたから。律法の専門家は、イエス様のことを責める口実を得て、自分の正しさを証明しよ うとしたのです。さて、イエスというやつは、何と答えるだろうか。ところが、 この考えを見抜かれたイエス様は、「わたしの隣人とは誰か」という問いに答える代わりに、たとえ話を語り始めました。
とても印象的なたとえ話です。ある人と追いはぎ、祭司とレビ人、そしてサマリア人が登場します。祭司とレビ人は、追いはぎに襲われて瀕死の状態の人を見ても、助けることなく通り過ぎました。反対に、サマリア人は瀕死の人を憐れに思って介抱しました。祭司とレビ人はユダヤ教の信仰を持ち、神殿で神のために仕える働きを担っていた人々です。ユダヤ教の共同体の中にいるという点で、律法の専門家にとってはお仲間というわけです。隣人を自分のように愛せという律法にも精通しているはずのこの祭司とレビ人が通り過ぎたのは、他でもないその律法に従ったからでした。倒れている人は動くことができません。この人が生きているのか死んでいるのか確かめるには、手を触れなければならなかったでしょう。
しかし、律法では祭司は死体に触れて身を汚してはならないとされていました。汚れた体では、神殿で働くことができません。だから死んでいるかもしれない人に触れることができなかったのです。彼らは決して冷酷な人たちではなかったと思います。きっと倒れた人を見て、同情する気持ちが湧いたはずです。しかし結局、祭司とレビ人は倒れている人を避け、わざわざ道の反対側を通っていきました。目の前の命よりも儀式的なきよさの方を選んだのです。
ここに、本来の意味を失い形式的なものに傾いた律法に縛られる人間の姿が示されています。マルコによる福音書 2:23-28 には、イエス様の弟子たちが律法で何の仕事もしてはならないと定められている安息日に麦の穂を摘んだことを、ファリサイ派の人々が非難する様子が書かれています。この時、イエス様はファリサイ派の人々に向かってこう言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」律法のために人間がいるのではなく、人間がよく生きるために律法があります。いくら律法を言葉通りに守っても、それが人を生かすことができなければ何の意味もありません。
祭司とレビ人の姿とは対照的に、サマリア人は道に倒れている人を助けます。ユダヤ人とサマリア人の間には歴史的な対立がありました。ユダヤ人はサマリア人を異教徒、汚れた者として毛嫌いしていました。そんな嫌われ者のサマリア人がこの人を助けたのです。愛に身分や民族による区別は無いからです。サマリア人はこの人を「見て、憐れに思い、近寄った」と書かれています。「憐れに思う」とは何でしょうか。私たちクリスチャンは説教や祈りの中で日常的に「神の憐れみ」とか「憐れんでください」とか言っているのですが、どういうことなのか深く考えずに使っているかもしれません。新約聖書の原文となるギリシャ語には憐れみを意味する言葉がいくつかありますが、この箇所に使われている「憐れむ」という動詞は、ルカ 15 章に出てくる放蕩息子を許す父親のように、神様を思わせる人物やイエス様ご自身のみに使われています。
「内臓、はらわた」を意味する言葉がもととなっていて、はらわたが揺さぶられるほどの最も強い憐れみを意味しているそうです。適した言葉が見つかりませんが、あえて日本語で言い換えるなら、「断腸の思い」という感じでしょうか。神様が、苦しむ人間を見てはらわたが揺さぶられるほどに、深く強く人間を愛しておられるということに大きな感動を覚えます。更に私たちにとって深い慰めとなるのは、この憐れみが、倒れた人を助け介抱するという、具体的な行為を伴っているということです。この「憐れむ」という動詞が使われた後には、必ず人間に何かが与えられています。例えば、ルカ福音書 7 章にある、やもめの死んだ一人息子を生き返らせる話や、15 章にある放蕩息子のたとえなどにも、憐れみ+行為という形を見ることができます。律法の専門家に向かって、イエス様は 2 度も「行いなさい」と言っておられます。イエス様の愛は、同情するだけに終わらず、必ず行いが伴うものなのです。
聖書は私たちに「行いなさい」と命じています。しかしながら、その言葉を素直に受け取ることができないと思う方もいらっしゃるのはないでしょうか。それは、特に私たちルター派の教会に属する者たちが示す反応であるかもしれません。なぜなら、ルター派の教会では、「信仰義認」の教理を最も大切にしているからです。私たちは行いによって救われるのではなく、神様からのまったくの賜物、恵みとして信仰を与えられ、救われるのだという考え方です。だから善い行いを奨励されることに関して、それは行いによって救われようとすることにならないだろうか、などと考えてしまって、どうしても消極的な感情を持つことを否めない。行いの話になると、なんとなく言葉を濁してしまう。勉強中の神学生の身で生意気なことを言ってしまいますが、信仰義認の教理が本来の意味を離れてひとり歩きしてしまっているように思えます。
ルター本人は、自身の著作『キリスト者の自由』の中で、行いは救いにとって重要なものではないとしながらも、神様から恵みをいただいた者は、身体と行いとによって隣人を助けるべきだと言っています。私たちの信仰から神への愛と喜びが流れ出て、その愛から隣人に仕える喜ばしい生活が流れ出ると。
イエス様の十字架と復活を通して、神様が私たちを憐れみ、近寄り、必要としていたものを見返り無しに与えてくださったのだから、私たちも自分のためにではなく、純粋に他人のためを思って行うことができるのです。それは、私たちが一人のキリストになることなのです。愛には行動が伴うもの。私たちこそ、信仰義認を表面的に理解した気持ちになり、それに固執して、自分自身が律法主義に陥ってしまわないよう、注意しなければならないと思います。
しかし、そうは言っても一体私に何ができるのだろうか。そんなにお金も持っていないし、体だって自由に動くわけではないし、自分が生活するだけで精一杯だし、と私たちは色々なことを考えてしまいます。ここで再び、たとえ話の中のサマリア人に注目してみましょう。サマリア人は宿の主人に2デナリオンを手渡しました。1デナリオンは、当時の労働者の一日分の賃金だったと言われていますから、彼は宿の主人に二日分の賃金に相当する金額を支払ったことになります。苦労して得た、大切なお金であることには違いないのですが、考えてみれば2デナリオンという金額はさほど大金ではありません。サマリア人がその時持っていたお金の中から出すことができた金額です。また、翌日には予定通り旅を続けようとしていますし、お金が足りない分は帰りに支払うと言っています。サマリア人は特別に大きな犠牲を払っているわけではありません。
彼は目の前にある命を慈しみ、その時自分にできる最善のことをしているのです。本日の旧約の日課である申命記 30:11 以下は、主から与えられた戒めは、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもないと語ります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」大げさで難しいことは求められていません。私たちはそれぞれの置かれた立場で相手を思いやり、その時にできる最善を尽くせばよいのです。大切なのは、「憐れに思い、近寄る」こと。私たちを憐れに思い、近寄ってくださったイエス様の心を、私たちの心とすることではないでしょうか。
最後に、イエス様は律法の専門家に対して、「誰がこの人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。これにははっとさせられます。律法の専門家が質問したように、隣人とは、初めから愛を向ける対象の範囲を決めておくようなものではなく、助けを必要としている人と出会った時、自分の方から「なる」ものなのですね。「あなたは、誰の隣人になるのか。」そのように、イエス様が私たちに問いかけておられるように思います。