【 説 教・音声版 】2022年11月13日(日)10:30 聖霊降臨後第23主日礼拝 説 教 「 始めの時にも終わりの日にも 」 坂本 千歳 牧師


※説教音声版には最初の1:44秒〜4:16秒にノイズが入っています。ご容赦ください。

ルカ21:5~19

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
むさしの教会を訪れたのは、実に20年ぶりでしょうか。神学校3年生の前期に教会実習でお世話になり、また2002年に按手を受ける直前にご挨拶に伺って以来ではないかと記憶しています。今年の春から八王子教会に着任し、同じ中央線沿線地区ということで、講壇交換という機会が与えられて、こうして今日、皆様と共に、この場所で、みことばを分かち合うことができるとは、神様のおはからいに感謝です。

さて、秋も深まり、いよいよ教会の暦も残すところあとわずかとなりました。早いものですね、一年があっという間に過ぎて行く気がします。再来週から新しい一年がはじまり、アドベント(待降節)ですものね。
教会暦の終わりを間近に控えた時期というのは、私たちがこの一年を振り返り、自分が何を大切にしてきたか、何に寄り頼んできたかを、特に神様の前で、神様と一緒に考えてみるためにあるのでしょうね。

この一年、様々なところを通されてきた私たちです。一人一人、天によって与えられた旅路をたどる中で、どんな時にも最も信頼すべきお方に、神様に信頼してきたか…。いやいや、ほとんどの場面で神様をおしのけてしまって、自分の力ばかりで物事を何とかしようと無理してこなかったか…(そのために、事態がかえっていびつなかたちになってしまわなかったか)などなど、自身の歩みを省みる時間をとってみる、それがとても大切なことかな、と感じます。

今日の福音書の日課で、イエス様は、終わりの時を、終末を迎える準備・心構えを教えてくださっています。
今日の日課は、ちょうどユダヤ教の三大祭の一つ「過越祭」の直前のことです(22:1)。過越祭はユダヤの人々にとって最も大切な祭りでしたから、この時期、エルサレムには地方から神殿にお参りに来る人たちでごった返していました普段は人口5万人ほどの町が、祭りのときには5、6倍に膨れ上がったようです。

今日の舞台、エルサレム神殿というのは、ヘロデ大王が紀元前20年に着工して、その死後30年を経てもなお建築が続けられていたという大建築物でした。シオンの山の上の平らな部分に建てられており、200本近い白い大理石の柱、石柱に、黄金の屋根が輝いていて遠く離れた場所からも見ることができるほど非常に壮麗な、立派な建物でした。

ガリラヤの地方出身のイエス様の弟子たちは、豪華な建物とすばらしい奉納物の数々にすっかり目を奪われてしまったでしょうし、近くにいた人たちも口々にそれらについて話しています。

そこで、イエス様は「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」といわれた。目の前にある、この壮麗な、見事な神殿が、なんと「瓦礫の山になる」というのです(事実、この後40年後に、ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊されてしまうことになるのですが)。どんな見事な建造物であっても、所詮、それは人の手によるものです。人の手が作ったモノは、人の手でまた壊すことができてしまうのですね。

主イエスの言葉を聞いた人たちは「ええっ!こんなすばらしいものが!」とびっくりしてしまう。あるいは不安になって「先生、ではそのことはいつ起こるのですか?また、それが起こるときにはどんなしるしがあるのですか?」と尋ねます。
私たちの関心はいつもそこにあります。それは「いつ起こるの?」、「どんな前触れがあるの?何が起こるの?」。

いつ起こるのかについては、ルカ福音書ではイエス様は何もお応えになっていませんが、マタイの24章の平行箇所で「その日そのときは、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ天の父だけがご存知である」と(24:36)とイエス様は答えてます。

終末がいつ来るかについては、昔から人々は関心を持ち、ノストラダムスの予言、またキリスト教のあるグループは終末が何年の何月何日に来るといって、人の心を惑わしています。人々の心の中にある不安に付け込んでくる。誰だって不安がある。しかも、終末には、戦争や暴動、民族間の対立、国家間の紛争、地震、記が、疫病、天変地異などが起こる。「それって、まさに今のことですよ。さあ、悔い改めて全財産を教団に献金しなさい。今の生活をもうやめにしなさい。仕事も辞めて、訪問伝道して、熱心に布教活動しないと、最終的に救われる人の数に入らないよ」などと脅迫めいたことを言って、信徒を縛る宗教もあります。

どんな時代にも、そういう宗教はあった。どんな時代にも人々は終末意識を持って生活していた。いつか終わりが来るのだとおびえていた。イエス様はこれらのことを含めて「私の名を名乗る者が大勢現れる」と警告されました。「時が近づいた」という噂や、「私がメシアだ」という者に惑わされないように気をつけなさいと警告されます。

そして、キリストを信じる者、イエス様の生き方に従いたいという人に対してまわりから迫害がおこる、苦しみが襲うともおっしゃっています。私たちとしては、苦難はできれば避けたいものですが、しかしイエス様は、「あなたがたにとって証をする機会になる」(13節)とおっしゃるのです。

興味深いことに、「あなたがたにとって証をする機会になる」(13節)の「証」というギリシャ語“マリュテュス”は、英語やドイツ語などの「殉教」という言葉の語源となった言葉です。証をするというのは、別の言葉で言えば、殉教者になるということでもあるともいえる。証をするとは、殉教すること。私たちがキリストを証するとき、私たちは殉教者になる。ちょっとドキっとします。

初代教会の指導者であるアンティオキアのイグナティウスという人がいます。このイグナティウスについて、古代の歴史家エウセビオスという人が『教会史』という書物の中に書き残しているのですが、そのころローマはキリスト教徒を捕らえては見世物にしてなぶり殺した。イグナティウスは、ローマの円形競技場、コロシアムで野獣に食われて殉教した。イグナティウスは最後のときに次のような言葉を残したと伝えられています。「私は神の一粒の麦である。私はキリストの豊かなパンになるために、野獣の歯に噛み砕かれるのだ」。

あるいは、第二次世界大戦のとき、ナチスに抵抗したドイツの教会闘争の指導者ボンフェッファーは、戦争が終わる一ヶ月前にゲジュタポに捕まり、絞首刑に処せられました。処刑の朝、仲間と別れるとき、彼はこう言った。「これが最後です。しかし、わたしにとっては命の始まりです」。

日本においても、多くのキリシタンたちがキリストの教えのために殉教したという歴史があります。
私たちはこれらの殉教者たちの姿をどう受け取るのでしょうか。「自分も、最後はああなりたい」、「いやとても無理だ」、「そこまでしなくても」、「いのちあってのものなのに」。

殉教、証って、私たちには遠いものですか?立派なクリスチャンにしかできないことと思っていないか?自分はまだまだだとか、いや自分はそれほどにはなれないだろうとか、あまり自分とは関係ない世界みたいとか?
しかし、殉教とは、証とは、決して立派な、英雄的な行為だけを意味するのではないということをおぼえたいのです。今日のイエス様のお言葉を借りるならば、殉教というのは、「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」と言われたイエス様に全面的に自分を委ねることです。

さきほどのイグナティウスやボンフェッファーのような英雄的な殉教者の生涯を考えるとき、私たちはその英雄的なあり方をみて「すごい」、「立派だ」、「勇敢だ」、「私たちの模範だ」と、その人たちを褒めるのではない。むしろ、彼らが、なぜ激しい迫害にあっても、岩のようにガンと動かず、毅然と立ち、命を差し出すことができたか、そこを見なくてはなりません。

パウロもまた迫害につぐ迫害、苦難に耐え、最後にローマで殉教の死をとげるのですが、それはパウロが人間的に強かったからではありません。強い肉体と強い意志、不屈の精神力をもっていたからではなくて、むしろ、彼が自分自身の弱さをよく知っており、人間の弱さにおいて神の力が全うされるということを、身をもって味わっていたからこそでしょう。証とは、まさにそれが神の力に支えられるがゆえに、時に人間業とは思えないような英雄的な戦いと殉教をも可能にするのではないでしょうか。神の力に支えられるがゆえに。そしてその神の力は人間の弱いところに発揮される。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。(コリントⅡ12:9)人間が強がって自分の力にしがみついていると、せっかくの神の力が発揮されないと、パウロも様々な挫折や病いや苦しみの中で気づいていったのではないでしょうか。

ところで、先ほどの古代の歴史家エウセビオスは、同じ書物『教会史』の中で、殉教に失敗したクリスチャンについても書いています。殉教に失敗して恥をさらした一人の人物、それはクイントスという名の男で、彼は自分自身の力を過信して(もしかして勢いもあって?)、よせばいいのに自分からクリスチャンであるとローマ当局・法廷に名乗り出ます。そこまでは立派だったのですが、やがてコロシアム、競技場に引っ張り出されたとき、実際、野獣の姿ライオンやクマを目の前にし、野獣のほえたける声を聞いて恐怖に駆られてしまい、キリストの救いの告白を自ら捨ててしまいました。大勢の人々の前で、教えを捨ててしまったのです。その後、迫害を逃れたクイントスがどのように生きたかは分かりません。

もしかして、私たちは、立派に死んでいったボンフェッファーやイグナティウスよりも、土壇場になって尻込みをしてしまったクイントスに共感してしまうかもしれません。おそらく彼は生涯生き恥をさらしたでしょうね。後々まで、仲間たちから、「あいつはいざとなったら信仰を捨てたんだ。みっともないやつだ」とか、散々言われたでしょうね。気の毒にエウセビオスの著作によって21世紀まで赤っ恥をさらすことになるとは。でも、私たちの誰もが彼のような部分を持っているのでしょう。彼が自力で?勢いで?行動したのは、自分を認めてもらいたい、賞賛されたい、すごいといわれたい、人の目を意識しすぎてしまったからかもしれません。

実は、こんな裏話が残っています。クイントスのいたスミルナの教会では、ポリュカルポスという人物が立派に殉教した。みんな、彼の信仰はすごいと褒めたたえた。クイントスは、「いつか見ていろ、おれだって」と・・・。愛すべきクイントスは、用意周到に、おそらく前もって弁明の言葉を準備していたにちがいありません。ローマ法廷で人々を感動させるような言葉、死ぬ前には英雄的な言葉を言って死にたい、と。ポリュカルポスをしのぐような、そしてできればあの明言を残した、「私は神の一粒の麦である。私が死ぬことでキリストのパンはもっと豊かになる」といったイグナティウスよりも、もっとかっこいい言葉で締め括りたい!と準備をし、さっそうと名乗り出たはずなのに、結局挫折してしまうのです。

自分の力でやろうとしたときに、自分を支えにしたときに、挫折してしまう。すごい決断だったと思うし、すごい勢いだったでしょうし、すごく燃えていたでしょうし、すごい迫力があったでしょうし、すごい意志の力だったと思います・・・・、しかし、結局、土壇場で恐怖にかられ、挫折してしまった。

私たちのもっている力、能力、知性、体力、力量、才能、若さ等々、それらが、いかほどのものか。そのようなものと信仰を、神からいただく力を混同させてはいけないのでしょう。私が人より優れているから云々、人より劣っているから、不利な情況にあるから云々、そんなことはあまり関係ない。ほとんど、いえ、まったく神様の世界では関係ない。殉教、そして証しは、私たちの確信が強いからできるということではない。

ただ、イエス様の言葉をまっすぐに信じること、「そのときになったら、どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたに授ける」(15節)、また、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)というイエスさまの言葉に全面的に委ねていくときに、神様ご自身が、そのようにさせてくださる。私たちの生き方、言葉をとおして神が働き、証をさせてくださる。

自分の弱さを、限界を認め、神に全部委ねることで、逆に私たちは強く、しなやかになれる。神がくださった知恵の言葉を語ることができるし、ビクビクと人を恐れることから解放され、命すらささげることができる、神様が必要ならばどうぞ、と。他の人を活かすため、真実を後の世に残すためならどうぞと、一粒の麦としてお使いくださいと、それで新しい命が生まれるならば、と自分のこだわりや強さを手放し、信頼と愛をもって、自分自身を差し出すことができるのではないでしょうか。

教会の暦が終わりを迎えるまであと二週間(アドベントまでの2週間)、どこかで時間をとり、この一年の歩みを振り返り、自分が何を大切にしてきたか、何に寄り頼んできたかをゆっくりと振り返る時間を持ちましょう。そして、できたら誰か信仰の友とそのことを分かち合うひと時を持てたら素晴らしいと思います。

人知ではとうていはかり知ることのできない神の愛が、今週一週間もこの群れに属する
お一人お一人と共にありますように。アーメン