聖書箇所:マタイによる福音書24章36~44節
皆さんは、今一番会いたい人は誰でしょうか? 無条件で、今日一日誰にでも会えるとしたら…。
私はやっぱり長男ですね。亡くなった長男。もう15年以上も会えていませんので、今日一日誰にでも会えるとしたら、長男と会ってみたいな、って思います。そんなことをあれこれと考えていましたら、ルターにもパウロにも会ってみたくなりました。そして、あっいかんいかん、イエスさまのことを忘れているじゃないか、と気づいた。一番大切な方を忘れていた。
そうです。もし願いが叶うなら、イエスさまに会いたい。イエスさまにお会いして、息子は元気にしていますか、よろしくお願いします、って、彼の弟たちを、家族をお守りくださいね、って、世界をお救いください、ってお願いしたい。もし、イエスさまにお会いできるなら、願いは全部叶うではないか、って思いました。
今日から待降節・アドヴェントです。クリスマスまでの待ち遠しい日々です。しかし、今日の日課は、どことなく不安になってしまうような、終末・世界の終わりに関する記事でした。では、なぜこんな記事がアドヴェントの最初に取り上げられているのか。この時期になりますと度々お話ししていることですが、アドヴェント・待降節には二つの意味があるからです。一つは文字通り、イエスさまのご降誕を覚え、記念し、待ち望むとき。もう一つは、再臨のキリストを覚え、その再来を待ち望むのです。
再臨のキリスト…。イエスさまはクリスマスに生まれ、人として生き、十字架に死なれ、三日目に復活されました。そして、使徒言行録によると40日ほど弟子たちと共に過ごされましたが、「再び戻ってくる」と約束して、天に昇られたのです。その「再び戻ってくる」というのが、再臨です。
しかし、その再臨とは、終末・世の終わりとも結び付けられる出来事なのです。つまり、イエスさまの再臨の時が世の終わりの時、世界の終末が再臨の時、ということです。ですから、イエスさまの再臨を思うことは、不安を掻き立てることにもなる。なぜなら、「滅び」を連想させることにもなるからです。確かに、そうです。ここには、厳しさ・厳粛さもある。しかし、それは、イエスさまとの関わり・つながりによって変わっていくことでもあるのです。
確かに終末・世の終わりは、おっかないことに違いない。確かに、そう。しかし、イエスさまとの出会いによって、イエスさまとの過ごし方によって、それだけではない真理・光が見えてくるようになる。それを見失ってはいけないのだ、と思うのです。
パウロが書いた真正の書と言われるものの一つに、テサロニケの信徒への手紙1がありますが(ちなみに、「2」の方はパウロのものではないと考えられています)、ここに終末について非常に興味深いことが記されています。この第一テサロニケはパウロ書簡の中でも最初期のもの(紀元50年代最初)と言われ、パウロ自身イエスさまの再臨がすぐにでも起こると信じていましたので、そんな様子が色濃く出ている書簡でもあります。
ここでパウロは、「希望を持たない人々のように嘆き悲しまないために」と前置きしながら、死者の復活を語り、そして、復活したものと生きているものとが再臨のキリストと空中で会うことになる、と語りながら、次のように話を進めていきます。ちょっと長いですが引用します。
第一テサロニケ5章1節から。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。
お読みいただいてお分かりのように、今日の福音書の日課と随分と共通点があるように思います。終末の時は誰も知らない。「無事だ。安全だ」と日々の生活を謳歌している間に、突然盗人のようになってくる。対抗する手立てはない。だから、目を覚ましている必要がある。等々。しかし、ここで注目すべきは、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」という言葉です。
つまり、どこに軸足を置くかで、この終末・再臨の理解が全く違ってくるわけです。イエスさまから離れていれば離れているほど、終末・再臨とは恐ろしく不安なものになるし、イエスさまと深く結びついていればいるほど、恐れる必要はない、むしろ、それは救いのときなのだ、と喜びをもって受け止められる、ということです。ただし、もちろん、簡単なことではないこともパウロも知っていますので、この事実に基づいて「互いに励まし合え」と勧めている訳です。
今日の日課で、イエスさまはこのように語られていました。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。ある方は、これは無理なことだ、といいます。24時間不眠不休で見張るなんて、現実的ではない、と言います。確かに、そうでしょう。イエスさまが本当に盗人のような方で、自分達に危害を加えるような存在ならば、心配で心配で、神経をすり減らしながら、24時間見張っていないといけないのかも知れません。
しかし、果たして、イエスさまが言いたいことは、そういうことなのだろうか。むしろ、イエスさまなら、いつきて下さっても、大歓迎です。そのための準備です。イエスさまの到来を見落とさないための準備です。つまり、突然来られたら困る、ではなくて、いつ、どんな時に来てくださっても良いように整えていくための準備です。
先程らい、終末・再臨の二つの方向性を話してきたと思います。一つは、まさしく裁きです。おっかない側面です。もう一つは、救いです。救いの完成の時です。喜ばしき時、待ち遠しい時です。しかし、おそらく、少なくとも私たちの心理状態は、そんな両極にはいないのだと思うのです。その間のどの位置なのか。恐れの方が強いのか。それとも、救い、喜びの方が強いのか。皆さんがそれぞれ心に問うたらいい。それぞれご自身の理解、感覚があると思います。しかし、そこで大事なことは、それらがどうして起こるのか、ということです。
自己理解・自己分析の結果か。もちろん、そうでしょう。自分は果たして救われるのに相応しいかどうかと、気になってしまうのかもしれない。自信が持てないでいるのかもしれない。それも事実。しかし、そうではないのです。
イエス・キリストです。イエスさまとの距離感です。その距離感が比例してくるのです。イエスさまとの距離感が遠ければ遠いほど、不安が増すでしょうし、イエスさまとの距離感が近ければ近いほど、自分に頼るのではなくて、イエスさまによって安心することができる。結局は、そこにあるのではないか。そこに、その距離感に私たちの問いがあるのではないか。
イエスさまとどんな出会い方をし、どう過ごしてきたか、それが問われる。つまり、私たちの365日24時間の日常です。その日常…、その日常でのイエスさまとの過ごし方、絆、それで分かれてしまう。不安の中を過ごすのか。それとも、平安と希望に満たされていくのか。それは、単に、この世界の終わり・終末だけを意味しないでしょう。
先週の聖霊降臨後最終主日にお話ししたように、「終わり」「終末」といえば、私たち個々人の人生の終わり、終着、「死」があるからです。その終わりの時もまた、恐ろしいのです。不安なのです。裁きを連想させるのです。しかし、そこにもイエスさまがいてくださる。裁きの、怒りの顔をして立ち塞がるのではなくて、慈しみ深い、慈愛のこもった優しい笑顔で、わたしたちを待ち受けてくださっている。
そのことを知るためにも、より強く信じるためにも、たとえ恐ろしい、おっかない現実が襲ってきたとしても、その喜びに、希望に立ち続けていくためにも、私たちは用意をしていかなければいけない。
その時がいつ来ても良いように。365日、24時間、イエスさまと交わる、イエスさまを知っていく、そんなイエスさまとの過ごし方が求められているのではないか。必要とされているのではないか。そう思うのです。だからこそ、パウロはこうも語ったのではないか。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。
絆とは、一朝一夕でどうのこうのなるものでもないでしょう。それなりの年月と密度が必要だと思います。しかし、今からでも決して遅くないはずです。パウロが語ったように、主と共に生きる、共に生きることができる。それが許されている。だからこそ、希望を、喜びを、感謝を見失わずに済む。たとえ、終わりを迎えようとも。そんなイエスさまが私たちのところに来てくださったことを、そして、もう一度来てくださることを感謝し、期待し、待ち望むのが、このクリスマス、アドヴェントではないか。そう思うのです。