【説教・音声版】2022年12月11日(日)10:30 待降節第3主日礼拝 説 教:「 ほかの方を待つべきでしょうか 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書11章2~11節



本日、待降節第三主日の日課にも、先週に引き続き洗礼者ヨハネが登場してまいりました。

先週もお話ししましたように、この洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者の系譜に連なる、つまり、人々の罪を糾弾し、悔い改めを迫る預言者中の預言者でした。そして、そんな彼の「後」からやってくるメシア・救い主も、自分なんかよりもはるかに偉大な「裁き主」だと期待していたように思われます。こう記されているからです。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。

その洗礼者ヨハネは、当時のガリラヤ領主であったヘロデ・アンティパスの不正を訴えたということで、具体的には自分の兄弟の妻へロディアを妻として迎えていたということですが、そのために牢獄に捕えられてしまいました。当時、既にイエスさまのことは評判になっており、獄中にも、そんなイエスさまの噂、評判が飛び込んでいたんだと思います。それらを聞いて、ヨハネは不安になったようです。なので、自分の弟子たちを遣わして、こう尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。

ひょっとすると、この後に記されています世間の評判も聞いていたのかもしれません。11章18節「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。ここで記されていますヨハネとは、もちろん洗礼者ヨハネのことで、彼は3章でも「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とありますように、非常にストイックな、禁欲的な生活をしていたようです。

「悪霊に取りつかれている」と言われるほどに、そのストイックさは尋常ではなかったのでしょう。それに対して「人の子」、つまりイエスさまは食事の席を楽しまれていたようです。毎食毎食ということではなかったでしょうが、聖書にも度々食事会や宴席に招かれていたことが記されています。しかも、その多くは…、とは言えないかもしれませんが、しかし、確かに、イエスさまは徴税人や罪人と言われる人たちともよく食事を共にしていました。

彼らの「仲間」と思われる程に。そんなふうに、世間の評判も正反対に分かれていたのかもしれません。そんな話が、獄中のヨハネの耳にも飛び込んできた。確かに、ヨハネとしても不安になったでしょう。自分は裁きを語る預言者としての職務の為に、潔癖すぎる程に罪・汚れを遠ざけて、禁欲の限りを尽くしてきたのに、自分の後から来られるメシアだと思っていたイエスは、自分が悔い改めを迫ってきた徴税人や罪人たちと食事まで一緒になさるとは…。

一体、どうなっているのか。私が待っていたのは、あのイエスではなかったのか。それとも、私は他の誰かを待たなければならなかったのか。自分の理解・期待と実像としてのイエスさまの姿との違いに、大いに混乱した洗礼者ヨハネは、たまりかねて弟子たちを遣わしたのではなかったか、そう思うのです。

これは、洗礼者ヨハネだけのことではないでしょう。私たちは、ヨハネにように「裁き主」としてのイエスさまなど、あまり期待していないのかもしれません。しかし、私たちは私たちなりに、やはり実像よりも自分たちの期待感の方が強くなり、「来るべき方はあなたなのか、それとも別の方なのか」といった思いを持たないとも限らないからです。イエスさまは、この洗礼者ヨハネについてこのようにも語っておられます。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら、王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。これは、ヨハネのことだけではなく、イエスさまについても言えることでしょう。私たちは、何を見に、クリスマスを迎えようとしているのか。

キリストの洗礼:アンドレア・デル・ヴェロッキオ (1435–1488)/レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519)  ウフィツィ美術館


洗礼者ヨハネよりもはるかに偉大な預言者か。「裁き主」か。それとも、裁きなどは一切求められない柔和な救い主か。いいや、違う。私たちが想像する救い主以上の方だ。この方は単に救い主としてお生まれになっただけではなく、十字架にまで歩んでくださったのだから。

私たちもまた、あの洗礼者ヨハネと同じように、待つべき方はあなたなのですか、と問いながらも、この救い主・メシアの実像に迫らなくてはならないのではないでしょうか。ともかく、不安な中でのヨハネの問いかけに対して、イエスさまはこのように答えられ ました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。

まさに、イエスさまがして来られたことです。繰り返しますが、洗礼者ヨハネの認識、理解が全く間違っていたのではありません。確かに、イエスさまは「裁き主」でもあられるのです。しかし、単なる「裁き主」ではないのです。イエスさまは救い主、癒し主でもあられる。この「裁き主」としてのイエスさま・神さまと「救い主・癒し主」としてのイエスさま・神さまとが、ガチンコの勝負をしたからこそ、あの十字架は生まれたのです。

その十字架の上で真剣勝負が繰り広げられて、イエスさまが私たちの身代わりとなってくださって、赦しが、救いが勝ったのです。愛が勝利したのです。だから、私たちはあの十字架の元で、罪人という自覚がありながらも安らぐことができるのです。安らぐことが許されているのです。

ともかく、洗礼者ヨハネの理解も間違ってはいなかった。しかし、一面的すぎた。これが、旧約聖書の、預言者の系譜の限界でもあった。だから、それを超えた他の面、癒し主としての救い主の面に、しかも、罪人の罪を赦す救い主としての側面に、面食らってしまった。混乱してしまった。

しかし、ここを押さえておかなければ、イエスさまを、神さまがお送りくださった救い主を、正しく理解したことにはならないのです。だから、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われるのです。私たちの理解、受け止め方、認識、期待ではありません。イエス・キリストその方に、その方の実像に「つまずかない人は幸い」なのです。

ところで、先ほどの言葉には気になるところがあります。これらは、まさにイエスさまがして来られたことです。目の見えない人を、足の不自由だった人を、大変厳しい皮膚病だった人を、耳の聞こえなかった人を癒されました。また、死者を生き返らせ、嘆き悲しむ家族に返されたりもしました。まさに、癒し主です。イエスさまによって、苦しめられてきた問題が解決され、癒されてきたのです。ところが、「貧しい人は福音を告げ知らされている」というのです。これはおかしい。他のことでは問題が解決されているのに、ここでは何ら「貧しさ」という問題が解決されていないからです。なのに、どうしてこれを同列に、むしろ最も重要なことのように最後に記されているのか。

そういえば、使徒書であるヤコブの手紙にも、明確な解決が示されていなかったように思います。むしろ、何度も何度も「忍耐」の必要性を説いていました。むしろ、私たちにとっては、こちらの方がより現実的なのかもしれません。イエスさまが「癒し主」であることは、本当に素晴らしいことです。しかし、私たちの多くは、そういった現実の癒しを経験していないからです。イエスさまを信じるようになって、祈るようになって、病気が治った人が、問題がすっかり解決した人が、一体どれほどいるでしょうか。

むしろ、私たちは、貧しいままなのです。問題・課題が解決してきたとは思えない。しかし、ここで注意しなければならないことは、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われていることなのです。貧しさという課題が解決されることでは必ずしもない。ずっと貧しいままなのかもしれない。しかし、それでも、いいえ、だからこそ、その貧しさの中で福音が告げ知らされている、というのです。

マタイによる福音書といえば、「山上の説教」ということがすぐにでも思い起こされますが、その冒頭で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われていたことを思い出すのです。ここでは、直接的な「癒し」は語られていません。貧しさという問題が取り去られる、とは言わないのです。むしろ、その貧しさこそが幸いだ、とさえ言っているのです。なぜなら、「天の国」はその人たちのものだからです。

イエスさまがしてくださった「福音」とは、何でしょうか。ひとことで言えば「神さまとの和解」です。あの十字架でのガチンコ勝負で、裁きの怒りではなくて、赦しの愛が勝利したからこそ、和解が成り立ったのです。つまり、もはや神さまは私たちを不安に陥れるような「敵」ではなくて、私たちの「味方」となってくださった、ということです。病気、怪我、障害、死、貧しさなどの不幸がより本当の不幸になるのは、神さまが「敵対」しておられるからこうなるのだ、と思い込まされることにあるのでしょう。

だから、この現代においても霊感商法なるものの被害が後を絶たない訳です。しかし、そうではない。確かに、かつては私たちの罪の為に神さまは敵にまわっていたかもしれないが、今やイエスさまによって私たちの味方となってくださっている。

それが、どれほど素晴らしいことか。幸いなことか。現在、ワールドカップのおかげで、やたらと「新しい景色」といった言葉が飛び交っていますが、まさに「新しい景色」がひらけてくるのです。例え、現実は変わらなくても、まだまだ忍耐が必要な時期が続いたとしても、もう今までの景色ではない。それでも、神さまが私たちの味方となってくださっているという新しい景色の中で、忍耐していくことができる。

しかも、単に現実を耐え忍ぶだけではなくて、ヤコブの手紙にあるように、農夫が作物が実るであろうことを期待しながら、信じながら、つまり希望を持ちながら忍耐するように、私たちもまた希望を失わずに忍耐することができるようになる。だから、例え貧しさが改善されないとしても、現状が変わらないとしても、この和解の福音が告げ知らされているのだから、それでも天の国はその人たちのものなのだから、幸いなのだ、と告げられているのではないか。そう思うのです。

イエスさまが評価されたように、洗礼者ヨハネは人から生まれた者の中では、最も偉大な人だったのかもしれません。しかし、それは、限界のある中でのことでした。だから、こう言われるのです。

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と。誰のことか。私たちのことです。単に裁き主としてだけでなく、救い主として、あの十字架と復活のイエスさまを知っている、知らされている私たちのことです。神さまとの和解の中に生かされ、例え困難な現実の中にあっても、希望を見失わず、「新しい景色」を見ながら、忍耐していくことができる私たちのことです。なんと幸いなことでしょうか。

この主のご降誕を、なおも待ち望んでいきたいと思います。