クリスマスになると聖壇に下げられた暗幕と緞帳、椅子の横にとりつけた蝋燭台。だるまストーブ、裏の塀添いに積み上げられた石炭の山。昔飾ったツリーの飾りを懐かしむように思い出されるそうした一つひとつのものたちは、この40年近くの間に、今はもう見ることがなくなってしまいました。そうしたものの一つに、インクで汚れた木箱におさめられていた謄写版があります。それは、週報やそしてこの「むさしのだより」をたくさん印刷したものでした。まだ幼かった自分は父がするその印刷を側で見ながら、インクが薄くなれば鉄のへらで新しくインクを継ぎ足したりしていたように思い出します。(注:石居基夫牧師のお父様は石居正己牧師です)
私が武蔵野教会で奉仕させていただいたのは、6年間のごく短い間でしたけれども、実際私にとっての武蔵野教会の思い出は、神学校教会が武蔵野教会として再出発した時期とほぼ重なっている不思議な関係にあります。そして、私はいつもこの教会で育てられたのだということを思うのです。ですから、私が前任の賀来先生から引き継いで、この「むさしのだより」にも稚拙な文章を載せねばならなくなったときには、大変なことになったのだと実感したものでした。そして、自分の「ワープロ」に向かいながら、「ガリ版」でなくて本当によかったなどとつまらないことが頭をよぎったりもしたものでした。
私が着任しましたときには、小山茂さんが「だより」の編集委員長をしてくださっていましたし、印刷の方は石垣さんが引き受けていてくださるという、まことに恵まれた環境でありました。ですから、私はといえば、自分の原稿を書くことと最後にでてくる穴埋めを考えることくらいだったのですが、経験のない自分は頭をひねるばかりで、石垣さんを待たせたこともあったように思います。2年ほど経って、ようやく私自身もなれてきた頃に、小山さんがいよいよ編集を続けることが難しいということで後任を探さなければならず、頭を痛めましたが、幸いにも秋田淳子さんがこれを引き継いでくださるということで助けられました。ちょうどその頃から、教会の委員会制度が新しくスタートしてその報告資料が紙面を埋めていく中で、秋田さんには「秋田さんらしい編集を」とむずかしい注文をして、ご苦労をかけたことが思い起こされます。また、その冬には石垣さんのお父さまが主に召されるという大変な中を、橋本さんの救援もくわえて石垣印刷局が何事もないかのようにその仕事を続けられましたときには、ここにも一つの「証し」が与えられたように思いました。
この「むさしのだより」は、武蔵野教会に主によって召し集められた方々の多くの証しを記録しているものの一つであると思います。また、教会活動の貴重な記録資料でもあります。数年前に、教会教育委員会が、武蔵野教会の教会教育資料を調べるときの唯一の確かな記録であったということは、「むさしのだより」の性格をよく現しているといってよいでしょう。教会のあゆみは、教会に集められた方々のいのちに刻まれてきましたが、またそれを分かち合う場として、この「だより」が果たしてきた役割は大きなものと思います。そして、今は主のみもとにあって、見ることの出来ないあの方この方が、確かに、この教会で主の恵みを共にしてくださったことを、あのバザーを、あの教会学校を、あの修養会を、あのハイキングを、あのクリスマスを共に喜んだことを記す大切な証しであることを思います。
300号。この数字は、主の前に決して大きなものではありません。しかし、かけがえのないあゆみが刻まれたこの数字は主によって祝福されたものであると信じるものです。