ウィーンの思い出(VII)~恩師に感謝して
音楽大学・エーリック・ヴェルバ先生(2)
野口玲子
1968年10月1日から音楽大学が始まりました。直ぐに授業で、日本のような入学式や始業式はありません。早速リート・オラトリオ科のDr.ヴェルバ教授のクラスの学生として大学の校舎へ向かいました。しかし当時の音楽大学は、校舎が何箇所にも分かれており、リート・オラトリオ科や一部の声楽科のレッスンは主に、かつては個人のお屋敷らしき佇まいのところで行われました。当時ヴェルバ先生はヨーロッパを中心に世界中を飛び回って活躍中で、定期的なレッスンを行うことは不可能な状況のため、3年間で完了のリート・オラトリオ科の1、2年生はアシスタントとしてクルト・シュミーデク先生が担当されました。
私は1年間だけシュミーデク先生に学んで、飛び級して3年のヴェルバ先生のクラスに入ることができましたが、ヴェルバ先生の授業を1年で終えるのは物足りなく思い、ヴェルバ先生と大学の許可をいただき(卒業年次での留年は、より学ばせたいと教授が希望する場合にのみ許可されます)3年生として更に1年間学び、卒業いたしました。
この3年間のリート・オラトリオ科のレッスンでは基礎から応用へとたくさんのことを学ぶことができました。まずシュミーデク先生からは、バロック時代の作品から徐々に現代へと、将来の私のレパートリーとなるための数々の作品を丁寧に教えていただきました。最初のレッスンのときに「来週までに」と10曲のリート作品をわたされ、次の週には「全曲暗譜で」と追われるように学ぶことは大変なことでしたが、本場で学ぶ厳しさとともに、自身の可能性が高まってゆくような喜びを覚えました。シュミーデク先生から「もうあなたに私から教えることはないから、ヴェルバ先生の方へ行ってよろしい」と言われてのことでしたが、ヴェルバ先生からは次々に新しい知らない曲を与えられました。ヴェルバ先生が型破りの天才、ということは承知していたつもりでも、先生の音楽に触れれば触れるほど、感性の豊かさ、勘のよさ、突然の思いつき等は何処から来るのかと、驚くばかり。レッスンでは理屈や規則は殆ど口にされません。自らピアノを弾きながら、リートの解釈について、詩の内容や音楽から感じる心を思いのままに表現するために、ご自身の演奏経験などを話され、時には冗談に紛らせながら、ピアノの音を通して示唆してくださったのだと思います。何と贅沢なことでしょう、学生の身分ながら、ヴェルバ先生のピアノ伴奏で歌えるのです。さらにヴェルバ先生はコンサートのプログラミングの名人です。良く勉強している学生が数人揃うと、気の利いたプログラムを組み立てられ、突然「演奏会をしよう!」と数日後には学内のホールで演奏会となります。ヴェルバ先生のピアノに導かれて歌うのですが、まさに名運転手の車の助手席に座っているような安心感に満たされます。学内のこのような演奏会でもウィーンの新聞に載り、お褒めの批評をいただいたこともありました。
ウィーンから帰国して半年後の1972年に、武蔵野音楽大学が、「公開レッスンと3回のリサイタルのピアノ伴奏」という契約条件で、ヴェルバ先生を短期間招聘しました。その企画のなかに私の帰国リサイタルを組み入れてくださったのです。ヴェルバ先生のピアノに伴われての「帰国リサイタル」という夢のようなことが叶えられた喜びを、畏れとともに今でも忘れずに感謝しています。
帰国後も1年置き程度に、春休みや夏休みを利用してウィーンを訪れ、レッスンしていただきました。最後にお会いしたのは1991年夏。奥様を亡くされた後、体調を崩され、「リハビリを真面目にしなきゃダメ!」と、看護婦さんに叱られて、悲しそうなお顔のヴェルバ先生。それから約半年後の1992年4月9日、奇しくも私の50歳の誕生日という節目の年に72歳で天へ召されました。
ヴェルバ先生へと導いてくださった神さまのおはからいに感謝いたします。(続く)
(むさしのだより2007年3月号より)