タデウス・ゴラス「なまけもののさとり方」の中に、”What happens is not as important as how you react to what happens”(出来事よりも、あなたがどう反応するかが重要)という言葉がある。不運・苦難に遭遇した時に特に言えることである。自分の状況を惨めと嘆き、苦しみ、人を羨むか、運命論的に諦観をもって受け入れるか。チャレンジとして勇気を奮い立たせるか、ミッションとして神の意思を感じとるか。
待降節に入った。アドベントとは新しい世界の到来である。私たちは望むように世界が変わって欲しいと願うが、世界でなく私たちの心が変わるのも新しい世界の到来である。心を真っ直ぐにして受け入れれば、天の国は既に到来している。このシリーズでは悟り方を中心テーマにしてきたが、結局、悟りとは新しい真実に目覚め、自分が変わることに他ならない。そして、日々新しく生まれる自分の発する《光》《波動》は世界や他者に伝わって行くだろう。世界が変わるとしたら、そのようにして変わるのだろう。
1年余りの連載、今回をもって一区切りとしたい。日常諸事に追われる日々だったが、色々考えを巡らせ、探るために読み、文章に刻んで行った。それは創造的な作業だったし、快く張り詰めた時間、憂さを昇華させ自由な世界に羽ばたける癒しの時間でもあった。ぼんやり断片的に思ってきたことが繋がり、形を持って浮かび上がって来るのはスリリングだった。書きたいテーマはまだ沢山あり、どこまでも探求したい。神学ではなく、一信徒の素朴な疑問と探求として。賀来周一先生やキリスト教入門講座のA・デーケン先生、A Seeker’s JournalのK・デール先生の心の後輩として。
宗教の教義は一種の理論体系であり、内的整合性が重んじられる。中世神学のような壮麗な体系も築かれてきた。しかし、構成の美しさより、現実の人生の問題に適用して答えを示してくれてこそ体系の存在意義がある。これは実用主義だが、ルターの方法でもあったと思う。ルターは、上から与えられた神学体系を自分の内面に徹底的に当てはめようとして挫折し、挫折の中にこそ真実を見出し、血肉化した真実に基づいて体系の方を建て直した。「地獄にもキリストはおわし給う」という信仰があれば、大胆に疑問を持ち、追求し、挫折さえできる。それは神の側の真実に出会うための恵みとなるだろう。
私も人生の困難にぶつかった経験に際して悩み考え、自分なりの答えを見つけてきた。数学思考タイプなので、まるで幾何の問題を解くように。「この人生の問題は、こんな補助線を引くと、上手く解ける」という発見の喜び。それだけだと人生訓の集まりに過ぎないので、補助線の根拠をキリスト教の原理に見つけようとしてきた。もっとも、連載を振り返って気づくのは、悟り無しに生きて行けない自分の業の深さである。
答えが得られたと思ってはいない。仮にいつか安寧の境地に達したとしても、この世の数多くの悲惨と無縁でいて良いのか。安寧を捨ててあえて、ままならない現実に飛び込むこともミッションなのではないか。まだ一山二山ありそうである。
色々な読者の方から興味深いとの反応を思いがけず頂いたりしたのは、書き手としてとても嬉しかった。海の向こうに居る昔の親友から突然のメールがあり、苦難の時に偶然にインターネットで見つけて読心の慰めになったと伝えてくれたのは感激だった。
さて、「悟り方」を一通り研究し終えたら、次は「なまけクリスチャンのサボり方」を研究しようか。いや、そちらは研究するまでもあるまい。では皆さま、長い間のお付き合いどうも有難うございました。叶うなら、いつか再会できることを。どうぞお元気で。
(むさしのだより2005年12月号より)