「<なまけクリスチャンの悟り方>No.10. 日々の祈り、礼拝、聖餐」 NOBU市吉

友人から教えてもらった簡易ストレッチ体操を、もう十余年間続けている。始めてから肩こりが軽減され、また時折寝違えたりするのもほぼ解消された。夜のストレッチは一日のうちに溜まった体の歪みを取る気分、朝のストレッチは寝ている間に縮こまった筋肉を伸ばして、一日のスタート状態にする気分である。疲れていたり時間がない時は面倒臭いと思うが、怠けると癖になりそうなので、駄目ダメと自分に言い聞かせ、欠かさないようにしている。あるヨガの教本に「健康と美とは、日々新たにされなければならない」とあったが、その通りだと思う。毎日のストレッチ体操をしていても、疲れや身体の歪みが徐々に蓄積されて行くので、時折、整体や鍼の世話にもなっている。(何もせずに寝ていられる貴重なリラックス・タイムでもある。)

祈りは《心のストレッチ》、礼拝は《心の整体》と言ったら、頷いて頂けるだろうか。寝る前に、一日を反省し、内面の揺れ動きで生じた心の歪みを取る。朝起きて床の上に正座し、「新しい朝をありがとうございます」と祈る。肉親らの無事を祈り、また病の床や苦しみの内にある方々を祈る。(時に、「神様、惨めな私を助けてください」という自分自身の悲鳴の祈りになることも。)祈りを通じて、原点を確認し、心の歪みを蓄積させず、日々を新しく始める。(正直に告白すると、就寝前の祈りがなかなか出来ない。寒くて蒲団に入ると、一日の振り返りの途中で眠ってしまう。この機に改めたいもの。)身体と同様、日々の祈りだけでは心の歪みが蓄積されて行く。真っ直ぐ歩こうとしても、印や目標物がないと微妙に方向がずれて行くようなものだろうか。毎週の礼拝は、自分の外から原点を矯正してくれる。できれば前奏の前に着席して心整えたいが、慌しく礼拝に臨んでしまうことも少なくない。そんな時でも、礼拝の流れの中で心のさざ波が段々と鎮まって行く。そして、最後の祝福の力強い宣言に勇気と力と慰めを与えられる。

月1回の聖餐式。私は配餐者の目を見つめながら配餐の言葉を聞き、パンとぶどう酒を頂くようにしている。ある時、配餐を受ける最後の数人のグループになったことがあった。大柴牧師は私の目を静かに見つめ、いつもの「あなたのために流されたキリストの血です」ではなく、「あなたの罪の赦しのために流されたキリストの血です」と言われた。それは私の自覚する罪、自覚しない罪の全てをご存知の方の言葉のように思われた。また、私の罪は赦されたが、そのために血が流れたことを知らされた。私が配餐者の目を見つめるのは、罪の告白だったのではないかと思うようになった。今や、私にとって配餐は、ほんの数秒に凝縮された、一連の罪の告白(配餐者の目を見つめ)、赦し(配餐者の言葉を聞き)、信仰告白(聖餐を頂く)である。

人の愛を否定するつもりはないし、語る資格もなかろう。しかし、人の愛は、究極のところ、自分にとっての理想を相手に投射することである。(文化的な尾ひれを付けたとしても、DNAを継承するための相手を見つけることが愛の出発点であり最終目的であるとすれば、それは宿命ではないだろうか。)人の愛は有難いことだが、愛される側は「本当の自分は違う」という思いから逃れられない。また相思相愛であっても、両者の理想の投射は呼応せず、タスキがけに行き違っているかも知れない。(人は恋愛の中で不安を感じないだろうか。)しかし、聖餐式で私たちが確認するのは、それと全く違った愛である。「思いと言葉、行いと怠りとによって多くの罪を犯す」私たち、自分のために人を愛する私たち、自分を愛する相手を愛しきれない私たち、その罪を全て知った上で、「それでも生きていて良い。あなたの絶望は深い。しかし、あなたに見えないもっと深いところであなたは本当は救われているのだよ」と。そして、分断されたかのように思われる私たちは、救いの深みで本当はつながっている。絶望の淵に落ち、そこから復活された主よ。

(むさしのだより2005年 4月号より)