「自分がしている事を人は認めない」と不満に思うことが人にはある。責任感の強い人、拘りの強い人にそういう傾向が強いだろう(誰のことじゃ)。自分のしていることばかりに目が向いていると、マルタのように(ルカ10:38-42)、そのような思いは募る。しかし、その思いは正当だろうか。自分のすべきことが100あるとする。そのうち、すべき事だと気づくのは30。手を付けられるのは10。結果が出るのは5。幾分でも目的に近づけるのは3。人が認めるのは1。そんなバランスが普通ではないか。100のすべきことのうち、せいぜい3位しか私たちは出来ていない。3のうち1だけでも認められたら十分ではないか。
では、自分のしていることは全体の中のどれほどか(家の中で、職場で、教会などについて考えてみる)。何分の1にもならない。取るに足らないものだ。残り全ては他人のお陰。その恩恵に自分は浴している。そのことに自分はどれだけ気づき、どれだけ感謝しているだろうか。100のうちの1だけでも感謝しているだろうか。
さらに目を広げてみる。ちょっと自宅から出掛けるとしても、歩く道は誰かが計画し、掘ったり、舗装したりしたもの。電車に乗るとする。駅舎を作った人々、線路を敷いた人々、車両を作った人々、橋を架けた人々、日々運営している人々。思えば、膨大な労力の恩恵に与っている(多くは、今はなき先人たちの労苦の賜物)。それらを何気なく利用している。投入された労力に比べて無視できるような料金で、あるいは無料で。
さらに目を広げてみる。水、大気、大地。そして、それらを包む地球は宇宙の産物。結局、自分を包む無限の広がりは全て他者が用意したものということに気づく。宇宙にまで思いを巡らせると、自分が塵のように取るに足らない存在であることを思い知らされる。四旬節(レント)の季節は、灰水曜日礼拝の「塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)という言葉を聞くことから始まる。その言葉は高慢な私たちに謙虚になれと命じている。
その塵のような私がこの世界に参加している。いや、世界に参加というより、世界が私を作り出した。私の身体の元となる塵があり、精妙な過程を経て、私が生み出され、生きる場所と生きる時間を与えられ、生命を支える食物や空気から、あらゆる便宜まで与えられ、生かされている。何故私がいるのか、何故世界は私を生んだのか。それは究極の不可思議である。(さらに遡れば、そもそも世界が無でなく、何故存在しているのか。)そして、私の生きた結果が次なるものの原因となる。生きることの不思議、命を任されていることの責任…。
「塵にすぎない」という言葉は、神がアダムを楽園から追放する時に言われた。それは一種の呪いだが、その裏には「お前が被造物であることを思い起こせ」という創造主の切なる願いがひしひしと感じられる。同じ節の「お前は顔に汗を流してパンを得る」、前節の「土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に」は、「地はお前の努力に報いてお前に食物を与える」という約束でもある。神から独立しようと罪を犯した人間になお投げつけられる神の愛。春に備えて慌しく過すマルタの日々の中で、ふと、塵にすぎない原点に帰るのも、心が落ち着く。
(むさしのだより2005年 3月号より)