「クリスマスの真実」 賀来周一

◆寅さん映画はなぜ長続きをしたか
かって山田洋次監督のもとで「寅さん映画」の監督助手をしていて、今は日本キリスト教団の牧師をしている人がいます。この人が、なぜ寅さん映画が長続きしたかという話をしてくれたことがありました。この人は、映画の中に人の真実というか、人間の本質にふれるようなセリフが散りばめられているからだと言います。その極め付けは、帝釈天のご前様で、この老僧が出てきて、「寅、コラっ」というと少々羽目を外した寅さんの性根が戻る、これは演出上の効果も効いているけれども、ある意味で理屈を越えて、寅さんが否応なく納得してしまうような人間の真実に触れるセリフだというわけです。人間が否応なく納得してしまう真実を寅さん映画がもっていて、それが寅さん映画の人気の理由だなと思わせる話でした。人はあまりにも理屈の世界にこだわり続けてきたように思います。そのため、理屈に合わないことは、本質から外れている、真実でないと思い込んでしまいました。しかしそのことがかえって、深いところにある人の真実を遠ざけてしまったのではないか、だから理屈の世界では見えない真実を寅さん映画に求めて、少し非日常的な、やや羽目を外したところで生きている寅さんに求めているのではないでしょうか。でも、それが真実であることに太鼓判を押してくれるものが必要です。それが帝釈天のご前様というわけです。
◆理屈を越える
聖書のクリスマス物語は、それこそ理屈を越えたことで一杯です。理屈をもってすれば「ええ、なんで」と思うところに、「なるほど」と納得する真実が見える、この矛盾がなんともたまらない魅力をクリスマス物語にもたらします。天使とヨセフやマリア、そして羊飼いたち、星と東方の占星術の学者、宿屋と飼い葉桶これらにどんな必然性があって登場してくるのか分かりません。「そうなのか。だからそうなんだ」と思慮と実証をもって自然にうなずかせるような「理屈」がそこにあるとは思えません。これらが登場するところでは、いつも思いも及ばないことが起こっています。非日常的な理屈を越えたことが起こり、しかも人がついそこに目を向けざるを得ない真実が見えます。
◆真実に目覚める
マリアは、天使のお告げを聞いて「どうしてそんなことが…」と思いながらも「この主のはしためにも目を留めてくださった」と告白せざるを得なくなっているではありませんか。ヨセフはマリアのことを表ざたにせずに、密かに縁を切ろうと決心したにも関わらず、天使の言う通りマリアを受け入れたではありませんか。彼らは理屈の世界では見えない真実に目覚めています。羊飼いは、天使のお告げを聞いて、驚きのあまり仕事はそっちのけで、わざわざ貧しい飼い葉桶の中に「あなたがたのためのしるし」であるお方を見に行ったのでした。「私たちのためのしるし」を見るためにです。その「しるし」は生活のために役立つ「しるし」ではなかったはずです。自分たちの理屈に従えば、羊の群れの番をしているほうが、余程まともな生活だったでしょう。本来ならメシアと無縁の生活をしたはずの東方の占星術の学者たちは、ただ星の導きのままにメシアを探す旅に出ました。旅には付き物の地図はないのです。ただ星の導きのままに。そこにどんな必然性があったというのでしょう。しかしその旅の結果を知る者は、その旅がどれほどの喜びであったかを疑いません。宿屋に泊る場所がなかったので、その夜はメシアの誕生になくてならぬ飼い葉桶が整えられました。メシアの誕生に関しては、飼い葉桶をだれもベビーベッドの代用品とは思わないはずです。飼い葉桶は、メシアの救いの本質である苦難と死を象徴します。さらにはメシアとはだれなのかを飼い葉桶の中に見ることでしょう。

これらのなかに、今の時代にあって、理屈の世界に飽き飽きして「それでもってほんとうに生きることのできる真実とはなにか」を探している私たちの姿が重なって見えてこないでしょうか。

(むさしのだより2004年12月号より)