キリスト教の中心テーマは何と言っても「救い」である。それは巷で宣伝されるインスタントな救いと違い、すぐ手に入る物ではないではない。しかし、人間の実存の深い部分に切り込んでおり、出会った時の新鮮さは年とともにさらなる驚きと味わいに変わってゆく。
●人類の救済史
救いは人類の歴史として俯瞰すると分かりやすい。要約したのが下図である。
創造は、神が意思を持ってこの世を作られたということである。創造の業を終えた時、神は「見よ、極めて良い(ヒネー、トーヴ、メオード)」と言われた。創造は祝福だったのである。この世と人類が出発点において祝福されていたことは、勇気を与えてくれる。
ところが、創造から間もなく、知恵の目覚めと誘惑の事件があり、これにより、人類は楽園から追放され、罪(内在の悪)と苦(外来の悪)と共に生きることになった。
そして、第二時代(旧約の時代)を経て、キリストの出来事(贖罪)があった。受肉、宣教、受難、復活、昇天という一連の事件として。贖罪の出来事の後も世界は不完全であり、罪と苦は去らないが、今やそれらは決定的な力を持たなくなった。
終末とは、この世に終わりがあるということである。最後の審判のイメージが強いが、賀来周一先生は「クリスマスの風景」(p91)の中で、「終末の時は、人の善悪を裁く裁判ではないのです。この世のあいまいさや不完全さが決定的に判断され、完成されるときです」と述べておられる。
四つの事件に挟まれた三つの時代は、「無垢の時代」、「神への背きの時代」、「神への回帰の時代」と呼べるだろう。私たちはキリストが勝利した第三の時代に生きている。
●個人の救済史
人類の救済の歴史に対して個人の救済の歴史はどのようなものか。それは、おおよそ次の図で示されると思う。
誕生は、塵だったものが生命として形作られることであり、祝福に包まれた出来事である。
物心に目覚める時期になると、この世が幸福に安全に満ちた調和の世界から、不完全と過ちに汚された非調和の世界に見えてくる。「世の中間違っている」「大人って不潔」と思うようになる。善悪をより分ける目は次第に自分の内にも向けられ、自己中心、高慢、臆病、怠惰、鈍感、冷酷、残酷、そして肉体と意思のどうしようもない弱さの罪を見出すようになる。物心の目覚めとは、罪の発見(自分の外)と罪の自覚(自分の内)であると言えよう。(漱石の「こころ」には、この罪の発見と自覚の過程が描かれている。)
ところが、そのような救いようの無い自分が、『それにも係わらず』救われていることに気づく。回心である。回心によって救われるのではなく、救われていることの発見が回心をもたらす。それは本当の信仰の始まりである。回心は劇的に訪れることもあるが、緩やかなプロセスであることの方が多いと思う。回心の後も、苦や罪は相変わらず残るが、キリストがそれらに勝利してしまっているのだから、それらはもはや本質的なものではなくなる。根本において私たちは救われてしまったのだ。(しかし、救いの安堵の中で時折思い出させられる。私たちの救いが神の痛み無しに為されたのではないことを。その時、私たちは慄然とする。私たちがキリストを十字架に付けたのだ。しかも、それは過去完了ではなく、現在進行形である…。)そのようにして、クリスチャンはかつて「救われようとする者」だったが、今やそのようにではなく、「救われた者」として生きるのである。救いはクリスチャンにとって古い人生のゴールであるともに、新しい人生の出発点である。
世界は美しい。私たちは救われている。しかし、世界は依然として不条理に満ちている。その世界に私たちは投げ出されている。これはクリスチャンに提示された最大のミュステーリア(不思議)のように思われる。「人間の問いに神は沈黙している」と言われることがある。しかし、「ミュステーリアをどう生きるか」を私たちが神から問われている。私たちがその問いに答えると神は明に暗に結果を示される。そして私たちは新たなミュステーリアを生きてゆく。
いずれ人生の終末である死を迎える。誰しも長寿を願い、真面目な人は健康に気を遣うであろう。それは人生への健全な態度である。しかし、「人生の最期の幕を引いてくださるのは神ご自身である」(「クリスマスの風景」, p164)。人は死を自己決定することはできない。死は未知である、しかし神の用意し給う未知である。一切を委ねて安心し、「たとえ明日、この世が終わろうと、私は今日りんごの木を植える」(ルターの言葉とされる)、そのような者でありたい。
こうして俯瞰すると、人類救済の歴史と個人救済の歴史が相似構造をしていることが見て取れる。生物学に「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉がある(受精卵が人の形になる発生過程で進化史に似たものがなぞられる)が、それと同様、「個人救済史は人類救済史を繰り返す」ように思われる。私たちに人類の救済史が流れ込んでいる。私たちはその最前線にいて、人類の救済史に参加している。
(むさしのだより2004年5月号より)