「フィンランド・スウェーデン紀行」 青村ゆかり

昨年12月、娘の奈苗と私とでヨハンナさんがフィンランドに帰っていらっしゃる間にフィンランドをたずねようと計画を練り、ヨハンナさんにお伝えしました。ところが驚きました。まさにその日の役員会で大柴先生が「フィンランド訪問団結成」の計画を話されるとは。ことの成り行きはともかく行く気十分だった私に、副団長のお役がついてきてしまいました。娘は新婚間もないこともあり、今回は取りやめましたが、その代わりということではありませんが、同居している義母、久我山の実家の母、札幌在住の義妹が一緒に参加してくれました。思いがけない展開でしたが、大変うれしいことでした。

旅の日程を検討していた頃は、イラク戦争、SARS問題などとぶつかり、出発直前まで気が抜けない状況で、何度かくじけそうになりましたが、常に大柴先生に励まされました。添乗員が同行しないため、大柴先生は現地のガイドさんへ渡すチップの細かいこと、列車から17名分の旅行鞄をおろす肉体労働、トラブル対応まで頼もしい団長でした。先生なくしては、ありえない旅でした。心からお礼を申し上げます。私は17名(平均年齢 66.2才)の点呼係に徹し、全員が怪我もなく事故にもあわず無事に成田に戻ってくることを念頭に置いていました。成田への帰路、コペンハーゲンを飛び立った時は思わず「万歳」を唱えていました。

フィンランドでは、時をこえ、民族をこえた心温まるメッセージをいただき「神さまにあってひとつ」を、実感しました。「神さまを讃美したい。」と、素直におもいました。ヨハンナさんの在籍するベヒカラーティ教会での礼拝の時、歓迎会の時、日本の宣教のために心を砕いてくださった方のご葬儀の翌日に交わした未亡人のかたとの抱擁の時、すべてが涙でいっぱいになりました。心ゆさぶる瞬間を、はるか遠く、言葉も通じないフィンランドの地で体験するとは思いもよらないことでした。公衆の面前で涙をみせるのは私的には許せない行為なのですが、勝手にでてきてしまうのです。これは聖霊のなせる業としかいいようがありませんでした。神さまがフィンランドから日本へ宣教師を派遣されてから103年経った今、このような交流を計画され、その一員として参加できたことを、感謝します。

ハミナに3泊、ヘルシンキに1泊した後、フィンランドのトウルクから国際航路のシリアラインに乗船してストックホルムに向かいましたが、思いがけずヨハンナさんも同行してくださいました。その船旅は、周りが海しか見えない大海原をいくのではなく、いくつもの群島の間をぬってすすむ、まるでおとぎの国を旅しているようで、大変楽しい時間でした。途中オーランド島に停泊しました。「ねこのオーランド」という絵本でねこの一家が海辺でキャンプをしますが、この島のことかしらなどと、楽しい想像をしました。

ストックホルムでは、処女航海で沈没したため、完全な形で現存する最古の軍艦ヴァーサ号に魅とれてしまいました。500の像、200あまりの木彫り装飾など贅の限りをつくしたものでした。しかし反面、最近読んだローズマリー・サトクリフ著の「ケルトとローマの息子」の中で、ガレー船送りの刑を宣告された主人公が、鎖でつながれ櫂をこぐ過酷さが頭をかすめ、もしヴァーサ号にこぎ手がいたならせめて鎖をはずしてもらえたのだろうか、生きのびただろうかと息苦しさをおぼえました。

水の都といわれるストックホルムは14の島からなっていて、人々は生活をエンジョイしていました。午前中のメーラレン湖は静かでしたが、4時には勤務を終えた人がヨットをはしらせていましたし、りんごをかじりつつストレム橋から釣り糸をたらしている人もみかけました。若いパパがスーツ姿でベビーカーを押している姿も様になっていました。日本社会では考えられない時間の使い方でした。

フィンランドでもスウエーデンでも長い歴史のなかで築き上げた重みを感じ、厳しい大自然は恵みとなって心をいやしてくれました。たずねた先々の教会がルーテル派だったことも、2つの国が身近に感じた大きな要素かもしれません。中身の濃い充実した10日間でした。そしてなにより温かい人々との交わりがいまでも心に残っています。

 (むさしのだより 2003年 7/8月号より)