北森嘉蔵 『エレミヤ書講話』(教文館)
廣幸 朝子映画『十戒』の神様と『ベン・ハー』の神様は同じ神様と言われたら、普通、人は仰天するのではないか。一方は、怒る、嘆く、嫉む、そしる、あなたそれでも神様なの?といいたくなるようなお方で、かたや、怒りも、嘆きもせずただひたすら人に寄り添い、癒しと愛を与え続ける方なのだから。私は大いに上信感をつのらせたものである。今回エレミア書の全容を知りその答えらしきものに出会えた。
エレミアの時代、紀元前600年ごろ、神様は方針転換すると告げられたという。神様、神様とすがるくせに神様の言葉には一向従わぬばかりか、度重なる背信、変節を繰り返す人間にほとほと困り抜き「はらわたの煮えくり返るほどの怒り《や「はらわたの千切れるばかりの絶望と悲しみ《のはて、神様は人を許そうと、そのおおいなる愛を知って人自らが神のもとに帰るようにと願われたのである。いわば、北風政策から太陽政策への転換である。しかし人はエレミアの預言を聞かなかった。600年後に、ついにわが身、わが一人子を罪人として衆人環視のなか十字架にかけるというこの上ない驚くべき手段で神様は人間に訴えたのである。「神はその一人子を与えるほど人を愛された《。そのことに初めて気がついたのが、12人の弟子とパウロである。
それから2000年。人は、クリスチャンはどんな歴史をつむいできただろう。なるほど、神をたたえて数知れぬ壮麗な教会が建てられたが、そのかげに旧約時代以上の殺戮と収奪が繰り返されてきたのではないか。神様のなげきはいかばかりか。
しかし、たとえばシュヴァイツアー博士、たとえばマザー・テレサ、また、教会の牧師たちのように神様の愛にこたえて生涯をささげる多くの人々を私たちは知っている。そのことによって私たちは慰められ、希望を持てるのである。「みくにを来たらせたまえ《と。
(2009年 5月号)