マーク・コリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(トランスビュー)
廣幸 朝子「すべての人間を救いたいのなら、神様はどうして日本人に直接話してくれないのか。」
戦国時代日本にやってきたイエズス会の宣教師は、無学の農民にこう尋ねられて返答に窮したという記録があるそうだ。宣教師由来の、西欧由来のものでなければキリスト教ではないのか。明治の開国のとき、はじめてキリスト教にであった人たちのなかにこのように考えた人たちがいたという。宣教師のもつ消しがたい人種偏見、日本の歴史や文化への無理解も引き鉄であったろう。この本は、西欧文化の鎧を脱いだキリストに出会いたい、と試行錯誤したひとびとの話しである。パウロのように直接啓示を受けたいと、あるいは受けたと称するひと、日本の歴史、文化のなかにキリストの啓示の痕跡を探る人、等々。そのいずれも成功したとは言いがたいようである。
しかし、インド、中国を経て日本に来た仏教は、留学僧ではない法然や親鸞らの、模倣や翻訳とはかけはなれた改革で民衆のものとなった。西欧の教会が、西欧の神学だけが真理か。信者の数がいつまでも人口の1%に満たないという現状がある。日本のキリスト教のリーダーたちは少し戦略を考え直してはどうだろう。先に読んだ「武士道《のなかで新渡戸氏は「究極の武士道はキリスト教の信仰に通じる《とのべているし、倉田百三の「出家とその弟子《の親鸞と弟子(息子)の問答はまるで聖書の解説のようだし、お遍路さんが身につける「同行二人《の文字は私たちがいつも聞いている話のようである。キリスト教は決して特異な説教をしているわけではないのに、なぜ日本人は敬遠するのか。舞台装置が過激なのだと思う。時代錯誤とも思えるおいのりの、あるいは賛美歌のことば、血と肉を分け合う聖餐式(動物の血を最高の栄養源と考えた狩猟民族と四つ足動物を食料としては忌避してきた日本人との感覚の相違)。キリストの身にまとう鎧が厚すぎないか。
(2008年 7月号)