志賀直哉 『小僧の神様』『城之崎にて』他、短編
廣幸 朝子志賀直哉は「小説の神様《と言われ、文化勲章も授与された大家である。黄門様の印籠ではないけれど吊前を聞いただけで恐れ入らなければならない。神様だから、手も足も出ない、論評なんて出来ないと思っていた。ところが、一人の方が「何を言いたいのか判らないこんな本は読むに値しない《とばっさり。みんなはちょっとギョッとして、あわてて神様の弁明を試みた。いわく、美しい日本語の手本ともなる優れた文章である、ムダがなく本質をつかみ取るような描写力である、主義主張がないからといって文学としての価値がないとは言えない、等々。私も弁明組であったが、実は、私も読後に違和感を感じていた。感動することはなかったのだ。印籠の呪縛から解かれて、それが何故かを考えていたとき、はからずも答えに出逢った。ある日の礼拝説教の一部で、牧師はフランクルの「夜と霧《の一節を取り上げ「たとえ、アウシュビッツのような極限状態の処でも、人に他を思いやる心があれば、愛があればそこは地獄ではない《と。志賀直哉ワールドに欠けているのはまさにそのことではないか。作者の眼は非常に冷厳で、現実的で、且つ世俗的である。人間の実体を見据えるあまり、他を思いやる心、他者への共感、崇高な精神、霊的な魂と言ったものには筆が及ばないのである。そこにこそ人は心を動かされるものを。
志賀直哉は7年間内村鑑三の弟子であったが、「襟のバッヂを外すように《教会を去ったという(北森嘉藏『愁いなき神』)。見事な決別である。
(2005年 6月号)