『平家物語』
鈴木 元子「祇園精舎の鐘の聲」で知られる平家物語(原文)に取り組んだ。まずその文章が、日本は曾て「言霊の幸う国」であった事を頷かせる。天皇、上皇を中心に政事に携るのは文官貴族で、武家の昇殿が最初に許されたのは平忠盛で、その子清盛の代には天下無敵の権勢を恣にした。やがて主上を凌ぐ権力を得ようと思い上がる清盛を密かに討とうと謀り合う者等は直ちに捕らえられ、死罪や島流しにされた。人々に知られる俊寛の悲劇などの様に、清盛の横暴を示す物語の数々が連ねられる。
その非道な所業を心から憂いたのは嫡男重盛で、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の身体ここにきわまる、所詮はただ重盛が首を召され候え」と直衣の袖を絞るばかりにかき口説く。間もなく重盛死去の後、清盛の専横は益々募り、やがて再興した源氏に滅ぼされ、二十七年間を記した物語は終焉を告げる。
平家の公達は既に殿上人の二世三世で、都落ちの忠度は、師、俊成郷の門を叩き、和歌百首を托して姿を消し、須磨の浦で討たれた紅顔の敦盛は、祖父が鳥羽の院から拝領した名笛「小枝」を腰に携えていた。彼らは武士ながら既に文人の素養が培われていた。我が子に紛う敦盛を、涙をのんで討つ熊谷直実の苦衷、木曽義仲、今井四郎の雄々しく又溢れる主従の情、平家物語は人間の暖かさ美しさも亦示して、今なお人の心を感動させる。
平家物語の中最も容易に読み下せるのは「妓王の事」。清盛寵愛の白拍子妓王が栄耀の日々を送る所に、新参の白拍子が現れる。すげなく追い払う清盛に妓王がとりなして、その仏卸前に逢わせたのが仇、一転して清盛の心は傾き、代って妓王はつれもなく追い出される。なおも重なる屈辱に堪えかねて、妓王は母、妹と共に髪を下し尼となって嵯峨野の奥に身をかくす。ところがある夜その門を、夜更けて叩く者は誰あろう、尼に姿を変えた仏卸前その人であった。「娑婆の栄華は夢の夢、栄華を誇って後世を知らざらん事の悲しさに、かくなりてこそ参りたれ」と泣き伏す仏卸前に、「僅か十七才にこそなりし人の、それ程までに穢土を厭い浄土を願わんと思い入り給うこそまことの大道心とは覚え候ひしか、うれしかりける善知識かな」と妓王は迎え入れ、四人揃って精進の中に相つぎ寂滅した。
日本の精神文化は西暦五五〇年頃百済経由で仏教が渡来し、続いて唐の儒教を吸収し、巧みに馴化してその基礎が築かれた。平家物語を貫いて仏教の信仰、儒教に基く倫理の根元を、私たちは在々と見出すのである。現在日本の社会を見渡す時、跛行的に進歩した物質文明に代えて失ったものの大きさを強く覚えずにはいられない。往時、学を身につける環境の子は、十才前後に四書五経を学び始め、書で学ぶことの無い者も、身の回りの先人の実践に倣って人の道を学んだ。八才からハイ・テクの操作を教えることが、人の心を育み培う何の役に立つのだろうか。過去を顧みる事は現在の我々の歪みを知る一つの鏡である。過去と現在の点と線を結んだ延長線上に、私達はどういう未来像を描くべきであろうか。
(2000年12月号)