「読書会ノート」 加賀乙彦 『高山右近』 講談社

 加賀乙彦著  『高山右近』 講談社

上村 敏文

 

この度、初めて読書会に参加させていただきました。噂には聞いておりましたが、なかなか多士済々のメンバーで、圧倒させられました。単なる、茶話会のような集まりではなく、本音が随所に出てきて大変有意義な時を持てましたことを、まず感謝申し上げます。

さて、私に声がかかったのは、昨年十月に、「高山右近」が、パリの日本文化会館で、新作能として公演されたのを取材に行ったからでしょう。ちょうど十年程前に上智大学の門脇神父が「イエズスの洗礼」を創作されてから、いくつかの新作能が発表されてはいたのですが、衣装は森英恵氏のデザイン、そして音楽は現代音楽を重層的に織り込み、東京芸大の野田輝之氏が指揮をするという斬新なものでした。日本でも、金沢、草津、東京等で何回か公演されていましたので、皆さんの中にもご覧になった方もいるかもしれません。しかし、私が日本での公演にはあまり関心がなかったのは、おそらく能に対する固定観念の強い風土では、受け入れられないのではないかと思っていたからです。帰りの飛行機でもたまたま隣り合わせた加賀氏も「酷評もされました」と語っていらっしゃいました。新しいものを創る、あるいは受け入れる時には批評、中傷はつきものなのでありましょう。

高山右近自身も、激動の時代にあって戦国武将として卓越した能力を発揮するのですが、キリスト教に入信し、また領地においても家臣のみならず、多くの領民を導いている反面、当然のことながら、「汝、殺すなかれ」という教えと、武将として戦わざるを得ない立場における葛藤があったことは容易に想像できるところでしょう。残念ながら、小説においては、その点がほとんど出てきていなかったように思います。理想的な、信仰において全く揺るぎない高山右近が浮かび上がりすぎて、小説としては物足らなさを感じるという印象を拭えませんでした。読書会メンバーの方からも同様の感想がいくつか語られていました。「日本人とキリスト教」という、現代にも通ずるテーマを「苦しみ」「痛み」「葛藤」という揺れ動く人間としての心理描写が弱く、残念ながらあまりに模範的すぎる右近像には読者に迫ってくるものが少なかったように思います。

その一方で、豊かな教養のもとに膨大な資料に基づく歴史小説としては、第一級のものであることは間違いないでしょう。また、そのエキスとしての能のパリ公演は、伝統芸と現代曲の見事なまでの構成力により、見る者を圧倒し、満足のいくものでした。ただ、遠藤文学の「無名な者」「弱き者」「迷う者」に光りがあてるといった、「深い河」に代表される登場人物の心の遍歴に共感する立場からは、加賀氏の描く「高山右近」は、遠藤氏の方向とは全く別のペクトルを持っているように感じました。加賀氏の持つ「強さ」ゆえなのかもしれません。

(2000年 2月号)