小島信夫 『抱擁家族』、 津島佑子 『光の領分』
廣幸 朝子今ほど家族のありようを問われる時はなかったと思います。今年の神大教職セミナーのテーマも「家族」でした。日本の近代化に伴い、器としての家の構造の変化と共に家族がどの様に変ってきたかを文学を通して見ようという、読書会では初のシリーズ企画でした。
まず、先月の藤村の『家』。これはいろり端から茶の間に変っていく大正・昭和の初期の話です。ここには大きな重い屋根を支える太い大黒柱さながら、一族郎党の全生活を抱えこみ、家長として君臨しながら、その余りの重さにあえいでいる男達や、忍従さえしていれば安住できる女達の姿がみられました。
小島の『抱擁家族』は、日本が高度成長を謳歌しはじめた頃。あこがれのアメリカ風のリビングと個室のある現代的な家はできたものの、家族はいつの間にか自分の世界だけが大切になって、主婦の病気・死という場面にも心の通いあえない家族を前におろおろする父親がいました。
津島の『光の領分』は、ほぼ現代の作品ですが、ここにはもう家とも呼べない粗末なアパートに母と娘の二人だけが住んでいる光景です。不実な夫を拒みながら、なお、肉体的精神的なさびしさに揺れ動く若い母親とその母親に敏感に反応して、とき折「恐怖の発作」を起す幼い娘の不安定な荒涼とした生活が描かれています。
「自由を求めて核家族になり、豊かさを求めて共稼ぎをする。それはもう戻れない道かも知れないが、一才にもならない子を保育園にあづけて了う今の家族、本当にこれでいいのか」とAさん。「アメリカの個室文化をとりいれる時、もう一つの文化であるキス、握手、抱擁あるいは愛情を示す言葉などのコミュニケーションをとりいれなかった日本は、今その方法を学ぶ必要があるのでは」と大柴先生。
リストラされたことを妻に話せなくてホームレスになる夫。いじめられていることを両親に言えなくて死を選ぶ、あるいは教室で暴れ、人さえも殺してしまう子供。経済性、効率性を求める商業主義に家庭さえもからめとられて私達家族は教育力どころかその存在基盤である包容力さえ失ってきたような気がします。
さて、来月はヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」。「よし!キリマンジャロストレートコーヒーをいれよう」と我等がボスは張り切っています。皆さんコーヒー飲みに来て下さい。