藤沢 周 『ブエノスアイレス午前零時』
廣幸 朝子「この本を」という本が見つからない時は芥川賞選考委員会に選んでもらうことがあります。で、今回は今年度上半期の受賞作『ブェノスアイレス午前零時』ということになりました。一体どんなお話かと(久し振りに)、ちょっとワクワクして読み始めました。
主人公は、都会生活に疲れて、故郷にユータンしてきた若者。舞台は、バブルがはじけてすっかり客足の遠のいた山の中の安ホテル。
そこに、都会から社交ダンスパーティーツアー御一行様がやって来ます。主人公は、ホテルの下働きをしながら、パーティーでは、タキシードを着て女性客のパートナーをつとめるのが仕事です。日本人にはおよそ似合いそうもない服装で、不自然な姿勢で、不自然な表情で踊る老男老女が、ちょっと世をすねた若者にどんな風に映るか、まァ想像ができるでしょう。
中に一人、皆から遠巻きにされているような老女がいます。若い時は外国人相手の娼婦をしていたらしい。今は目も殆ど見えず、痴呆の気もある。連れの妹がひとり気を揉んでいます。若者は、従業員の仕事として、彼女にダンスを申し込みます。そのたわいない要求にも淡々と応えてやります。……そして、曲がワルツになっても、ルンバに変っても、二人はずっとタンゴを踊り続けるのです。彼女が最も輝いていた時代の想い出のタンゴを。
この小説の始めから終りまで、静かに流れている、静かに流れているBGMは、ピアソラの『ブェノスアイレス午前零時。』哀調のタンゴです。
『ゴリオ爺さん』や『罪と罰』の本当の主人公は、その時代のパリであり、ペテルスブルグであると、作者は云っています。ならばこの本の本当の主人公は、まさに、平成十年の日本であると云えるでしょう。等身大の人物達の登場に、思わず身につまされて、誰かが言いました。
「私達は、これからどうしたらいいのかしらネ。」
あァ、この人からこんな弱気なセリフを聞こうとは。あなたは、私達の旗振り役じゃありませんか。